2009年1月31日土曜日

中国名言集⑧上善如水⑨足るを知る者は富む

 いずれも老子の言葉です。

 「史記」によると孔子が洛陽に周の蔵書かがりをしていた老子を訪れ「礼」を教えもらったと記述されています。老子の活躍時代はいろんな説がありますが、孔子と同時代とも考えられ、紀元前の中国の墳墓より「老子」の言葉を書き付けた布片が出土しています。その言葉は5000字強で、函谷関の関守の依頼で「道」と「徳」81章を作成し、関守に渡し、どこともしれず去ったと記録されています。

 ⑧「上善(若)如水」(原書には若とありますが如としました、)とは小川環樹訳注「老子」によると「最上の善とは水のようなものだ。」(水のよさは、あらゆる生物に恵みを施し、しかもそれ自身は争わず、それでいて、すべての人がさげすむ場所に満足していることにある。(水を)「道」にあれほど近いものにしている。)ということです。・・・水は高きところから低きところへ流れていきます。似ている名言に「水は方円の器に随(したが)う」(韓非子)というのがあります。水は柔軟で四角の器にも、丸い器にもおさまる、つまり、上しだいで下がついていくという意味です。わが国の戦国時代の知将、黒田如水もここから名づけています。

 ⑨「足るを知る者は富む」同訳注によると「(もっているだけのもので)満足するのが富んでいることであり・・・」ことわざ慣用句辞典によると「満足することを知っているものは、たとえ貧しくとも精神的には富んでゆたかである。」とあります。この考え方からでたと思われるのがロを真ん中に吾、唯、足る、知るという円形の字体です。

 老子は現状を満足、何かするよりも何もしない方へ、大よりは小へ、高いところより低いところへ自分をおくといった考え方で、まず個人の健康であることがなりより大切であるという主張です。

 「道」を標榜し、人より「地」が、「地」より「天」が。「天」より「道」が上位で、「道」の上位は「自然」すなわち何もしない天真爛漫の赤子の状態とのことです。国で言えば、治めず、自然のままがよい、上の人は下の人に干渉しない、それ故、国は小がよい。儒教思想がやかましく人倫を説く時、その反動として、ほっとする中国の人々の心のよりどころが、老子そして後に紹介したいと思っている荘子だったようです。老荘思想はやがて道教となっていきます。(WELL BE)

2009年1月30日金曜日

中国映画「戦場のレクイエム」を観ました。

 フォン・シャオガン監督の「戦場のレクイエム」を観ました。中国の1948年当時の国民党と共産軍の戦い、広大な中国の中での1小隊48名が死守を命じられた炭鉱の防衛戦の物語。

 集合ラッパが鳴るまで、死守せよ。ラッパが鳴ったか、鳴らなかったか。48名は敵に蹂躙される。・・・

 国共内戦は知識では知っていたが、現実は映画で想像できる。大変な戦いをしてきたようだ。その後、中国は共産軍が勝利して現在に至っている。

 その国を理解するのに、映画のイメージがよいようだ。この映画は韓国の北と南の戦争の物語を撮ったスタッフの協力を得て作ったとのこと。原作は3ページの実話で内容をふくらませていった。出来上がりはアメリカ映画のようだった。見終わった今、映画の内容の前と後の中国に展望が広がっている。(WELL BE)

2009年1月28日水曜日

中国名言集⑦詩書礼楽をもって治む


 藤堂明保「中国名言集」(上) 「詩書礼楽をもって治む」より主たるところを引用してご紹介しましょう。図は春秋時代の中国を大づかみのため"晋"を加えました。当時の。春秋五覇=黄河下流の山東省に斉、その西隣の黄河北に晋、揚子江の南に越、その西北揚子江沿いに呉、揚子江上流北に楚がありました。

 孔子生誕より約100年前、BC659年秦の王位に繆公(ビュウコウ)がついた。当時の中国は春秋五覇(斉・晋・楚・呉・越)が周王をみかけ上の盟主としていた。秦は黄河のコの字を左90度回転させた下部にあり、当時「夷狄(いてき)」と見られていた元遊牧民でした。中央の勢力に関心を持ち、紆余曲折を経て2人の政客を採用しました。それが蹇叔(ケンシュク)と百里奚(ヒャクリケイ)でした。この「二老」をブレーンとして、その知恵と情報を利用してついに黄河の岸(山西-陝西の境)までを勢力に収めて「わが馬に黄河の水をのましめん」という野望を実現したのでした。

 繆公(ビュウコウ)の晩年、遊牧民「西戎」のところから由余(ユウヨ)という漢人が使者としてやってきました。
繆公「中国は、詩書・礼楽・法渡で政治をしているが、時に乱れることがある。夷狄にはこれがない、何をもって国を治めているのですか?」
由余「これこそが中国が乱れるゆえんです。上古聖帝の時代は別として、後世に及んでは、貴族は豪奢に流れ、法はいきわたらず、責任を下にかぶせています。上下恨みあいて、殺しあっています。しかるに、夷狄の人たちは上は徳をもって下に遇し、下は忠信をいだきてその上に仕えていますね」

 夷狄からみれば「詩書礼楽の文明」は封建貴族の退廃と、はてしない消費の競争にすぎないと思われたようですね。繆公は文明とはおそろしい毒をもつものだ、と思ったようです。東方の毒気にあたらないように注意をして政治をおこなったとのことです。

 最近のTVニュースに北朝鮮の金正男が流暢な英語で、つやのある風貌をみせていましたね。本国では対照的に質実に生きている2000万人余の同胞がいます。北朝鮮のリーダーがこの名言を見れば胸をなでおろすかもしれません。結局は、いずれの陣営の国も、国民に十分な「職」と「食」を提供でき「希望」を与えられるよう、指導者が情熱をもって指針を出し、国民もボトムアップする英知を発揮していかねばならないと思います。アメリカのオバマ大統領の決意と国民の熱気、わが日本では大阪府橋下知事の熱意のリーダーシップと府民の支持、地球の処々で変革の動きがでていることは頼もしいことです。(WELL BE)

2009年1月21日水曜日

中国名言集⑥「朋あり遠方より来るまた、楽しからずや」

孔子(BC552-479)の言った言葉として「論語」学而篇にある。

「学而時習之、不亦説乎。有朋自遠方来、不亦楽乎、人不知而不慍、不亦君子乎。」(学んで時には復習する、うれしいですね。(一緒に学んだ)友が遠くから訪ねてきてくれる。また、楽しいことですね。人が(自分が学んでいることを)知らないことだって、何とも思わない。君子ですね。)

 今の中国山東省にあった魯の孔子の生きた春秋時代は下克上の列強国割拠の時代でした。魯国の司法大臣まで登りつめたが、56歳以降69歳まで多くの弟子たちをつれて魯国を出て諸国をまわる。伝えられる数字では3000人の弟子を有していたというが。孔子の死(BC479)以降弟子たちや孫弟子たちが孔子の言った言葉を残した。20篇に及ぶ。その中の最初にあるのが冒頭の言葉です。

 孔子は「周」のよき昔に戻すべく、君臣、親子さまざまな「礼」を守ること、親子の「孝」、人間として生きる上で大切なことを人々に語りかけた。「論語」の最初に学ぶこと、そして時に復習すること、一緒に学んだ人たちが訪ねに来てくれる喜び、そして自分の能力をたとえ人が知らなくてもいいじゃあないか、と語りかけてくれる。

 中国では漢代以降、孔子・孟子を中核にすえた儒教が国教となりました。以降、中国の各層によきにつけ、悪しきにつけ中国人のバックボーンとなって今日に至っていると思います。

 日本には6世紀の半ばに百済より「論語」がもたらされた。おりおりの政権に重要視され、聖徳太子の17条憲法「和を以って貴しとなす」も論語にあり、徳川家康の遺訓「人生は重荷を背負って山道をいくが如し、急ぐべからず」も論語が原典にあり、家康は論語学習を押し進めました。江戸時代では町民から武士まで「論語」を学ぶことががさかんとなりました。武士道に「忠義」等多大の影響を与えました。明治以降、和魂洋才で一旦は漢籍を捨てたかに見えますが、どっこい儒教は日本的儒教として人々の底流に生きていると思います。それがこれらの論語に元をなす名言です。他に「一を知れば十を知る」「・・30にして立つ、40にして惑わず、50にして天命を知る。・・・」「仁義」「孝行」・・・古くなった理屈は取捨し、今に通用するものは取り入れて勉強していきたいと思います。野球用語の敬遠も元は論語にあります。「三省堂」の三省(友に謀りて忠ならずか、交わりて信ならずか、習わざるを伝えしかと日に3省する。)、「温故知新」(古きをたずねて新しきを知る)、「学習院」の文字も、明治の元勲山形有朋も「論語」よりきているとのことです。陳舜臣「論語抄」他を参考としました。(WELL BE)

2009年1月19日月曜日

映画「靖国」観ました。

 千里中央セルシーシアターで話題となっていた李纓(リー・イン)監督の「靖国」を観ました。感想を記します。

(内容)

 靖国神社の現在を通じて、李監督の思いをバックに靖国の刀鍛冶の鍛冶風景を縦糸として、さまざまなエピソード(小泉元総理の参拝、台湾人の合祀反対、参拝賛成派、反対派・・・)をからめ、歴史エピソードの映像(昭和天皇の参拝・軍人の参拝・百人ぎり・空襲・原爆投下・・・)を交えて靖国神社とは何かを問いかけているドキュメンタリー映画。台湾の女性がいっていたことが気になります。「靖国神社の鳥居の木は台湾の木を切って持ってきた。台湾人を戦争に呼び込み、台湾人で戦死した人の魂を異国の地の靖国に断りなく祀るのは、納得行かない。合祀からはずして返して欲しい。もし、日本人がそのような仕打ちを受けて、台湾で祀られれば、どう思いますか」と靖国神社の担当者に切り込んでいました。

(感想)

・日本人では靖国の映画化は構想できなかった。(太平洋戦争を総括せず、あいまいに現在まで来ているため)中国人につきつけられたところに意義があると思います。

・朝鮮併合・日清戦争・日露戦争・満州国設立・中国戦争・真珠湾奇襲と対米英戦争開始・アジア戦線拡大・特攻隊・戦艦大和の特攻作戦・原爆を受けるに至ったことその他様々な結果を生んだ行為の原因の分析と真摯な反省とその総括が必要と思います。そしてそれらの反省に立って、靖国神社の位置づけもしっかりと再構築し国民の納得の行く場所にせねばならないと思います。(反省をあいまいにすると行為を美化する論理が出てきます)

(目で見てわかる国民レベルで共有するようなニュートラルな考えに立つ先の大戦を反省する恒久的施設の設立が必要でしょうし、そのような計画があるとも聞いたことがあります。)

・多くの日本人に見てほしい映画です。

 幼い頃、母の背でB29の焼夷弾を避けてにげまどったこと。どこそこが玉砕するといった大人の話を聞いたこと。父が戦死したこと。戦争だけはこりごりだと思い続けています。(WELL BE)

2009年1月16日金曜日

映画「禅」を観ました。

 高橋 伴明監督 中村勘太郎主演 「禅」を先日みました。平日にかかわらず、年配者中心でしたが、大入りでびっくりしました。

 真面目な映画でした。道元禅師が宋にわたったシーンでは、中国語による会話にはびっくりしました。俳優諸氏がよく中国語をマスターされ、現地ロケで臨場感がありました。道元が宋に渡った後、京都での布教活動、永平寺を開山し、教団を作り、道元禅師の死ぬまでを描く。このような真摯な映画づくりが日本人によって認められ、多くの観客を動員して成功を収めれば、日本も捨てたものでないと思っています。

映画のHPより「八大人覚」を引用しました。参考としたいです。

少欲(しょうよく)
一、あまり高い目標を追い求めすぎると、破滅する。

知足(ちそく)
二、欲をいい張ったらキリがない。限度を知る。

楽寂静(ぎょうじゃくじょう)
三、のどかで美しい景色眺めると、心が澄む。

勤精進(ごんしょうじん)
四、やりたいことを一つにしぼり、無駄を省く。

不忘念(ふもうねん)
五、心が修まっていれば、人目は気にならない。

修禅定(しゅぜんじょう)
六、うまく事が運ばなかったら、一歩退いて見る。

修智恵(しゅちえ)
七、前向きの話を聞いていれば、混乱しない。

不戯論(ふけろん)
八、無益な口論ほど、社会を乱すものはない。(WELL BE)

2009年1月15日木曜日

中国名言集⑤宋襄(そうじょう)の仁

 斉の桓公が、BC643年に亡くなった。殷の棄民が国を作っていた宋に襄公という後世、次のことで有名になる宋国のTOPがいた。中国南部に楚という国があり、宋の襄公が中央部で覇権を得ようとしているようで、面白くないものを感じていた。BC638年冬、楚は大軍を整えて北上し宋との国境の泓水のほとりにおしよせた。宋軍の面前で隊伍を乱して川を渡り始めた。参謀の子魚が、
「襄公どの多勢に少勢の我々は今攻めるべきです。」といった。
襄公は、そ知らぬ顔、楚軍は川を渡り終えたが、隊列が整わない。また、参謀の子魚が言った。
「今こそ、攻めるべきです。」
襄公は動かなかった。ようやく敵の隊列が整った。襄公はついに言った。
「かかれ!」

 その結果は散々だった。部下が口々に不満を言った。襄公は「われ亡国の子孫なりといえども、列をなさざる敵に向かって鼓を打たず」と。

 この時に受けた傷で翌年襄公は亡くなった。(藤堂明保「中国名言集」上より脚色記載)

 何とも、痛々しいが、清々しい話です。これが人間が「義」を重んずるということなのでしょう。中東では現在きなくさい紛争が起こっています。正々堂々たる史実を多くの国の人が共有し歴史に学んでほしいですね。(WELL BE)

2009年1月9日金曜日

中国名言集③「管鮑(かんぽう)の交わり」④衣食足りて栄辱を知る

 以下はNHK知るを楽しむ 宮城谷昌光「孟嘗君と戦国時代」より抜粋し脚色して記載します。

 BC11世紀周の武王を助けて殷を滅亡させたのは、牧畜民の羌族出身の太公望であった。その功で周王室から今の山東省のところに「斉」の国をさずけられる。それからおよそ270年後、周は滅亡状態となるが、平王が洛陽の地で王朝を再興した。(BC770)それを東周と呼ぶが別称として「春秋・戦国時代」という。周王は諸侯の争いを調停する力をもたなく、諸侯の中の実力者を探して盟主として立て結束するようになった。春秋時代の初期は斉の桓公であった。そうあらしめたのが、臣下の管仲(?-BC645)であった。管仲を臣下として桓公に勧めたのが鮑叔(ほうしゅく)であった。

 鮑叔「一国の経営であれば自分でもできるが、天下を治めるには管仲が必要」
 桓公「そうか、どこに処遇すればよいか」
 鮑叔「私が大臣の職を引き、その後釜としてください」
という経過で管仲が斉の大臣となった。後に孔子(BC551-479)は鮑叔の進退を手放しでほめた。管仲・鮑叔の相手を認め合う交遊を「管鮑の交わり」という。

 管仲は国の制度、兵制を整え、経済政策を実行して斉国を富み、強くした。
 後世の管仲崇拝者が作った「管子」に次の文がある。

 「倉廩(そうりん)実つれば、すなわち礼節を知り、衣食足れば、即ち栄辱を知る」

 周王は斉国の隆昌をこころよく思っていなかったのは勿論である。

 NHKTV日曜「天地人」直江兼続の生涯を描く大河ドラマが 1月4日から始まった。戦国から江戸時代へ、上杉謙信を師として上杉景勝を補佐する名将の物語である。どこか、直江兼続と管仲が似ていると思ったのだが、結末は違う。管仲の死後、斉の国は衰退に向かい、王権者が田氏に交代して復活する。上杉家は徳川家康に「義」において問題ありと直江文をつきつけ「関が原の戦い」西軍敗退の後、上杉家は1/4の領土になるが戦国から泰平の江戸時代に存続していく。(WELL BE)

2009年1月3日土曜日

中国名言集②「殷鑑遠からず」

 藤堂明保著「中国名言集」(上)によると、「周のはじめ、成王を助けて摂政の役についた周公はこわいおじ様であった。「書経」の「無逸篇」はその周公が建国当初、成王以下の周の王族たちを戒めた訓示である。「父母は農耕に勤労すれど、その子は農耕の艱難を知らず、・・・昔、殷の中宗は小民を治めてひたすら恐れ、あえて怠らず国をうくること75年なり。殷の高宗は久しく、外に労して民とともにせり、故に国をうくること59年なり・・・・これより後は農耕の艱難を知らず、故にひさしきことあたわず、10年もしくわ7,8年あるいは5,6年もしくは4,3年にして滅びたり」

 殷の西部に勢力をおいていた周の武王が殷が滅ぼしたのは、紀元前11世紀の半ば、山東半島にいた太公望の助力を得た。先出の周公は武王をも助けた。「殷鑑遠からず」とは、周の時代になって、殷が滅んだことを鑑とせよ、そんなに遠い昔のことではないといつているのである。殷といい、周といい、直接支配しているのは小さな範囲で、封建領主の支配者となっていた。

 古い時代のことわざだが、毛沢東の文化大革命でも、知識人の農村下放があったが、根本の考えは時代を超えて戻ってくるようだ。

 余談ですが、滅んだ殷は養蚕・陶器・漆器・青銅器等の文明が栄えていた。殷人は特産物を、各地に売り歩くこととなる。これを「商」と呼び、勝った周も殷人の力を必要としたが、これをさげすんで、「商」人の位置を最下層とした。殷のことを中国では「商」とよんでいる。

 後に、日本でも江戸時代に士農工商と「商」人は最下位の位置づけとなったのは、中国の古い時代からの考え方のマネであったと思われる。(藤堂明保著中国名言集(上)他を参考としました。WELL BE)