2010年12月28日火曜日

[Let’s Watch Movies]「武士の家計簿」森田 芳光監督 堺 雅人主演

 師走、今年のことも、目処をつけて「武士の家計簿」森田 芳光監督 堺 雅人主演を梅田ピカデリーで観てきました。

 加賀100万石の、あるソロバン武士3代のお話。その名も猪山直之(堺 雅人)という。小さい頃から父(信之)・・・東京金沢藩邸の門を前面のみ赤に塗り、コストを抑えたのが自慢の種・・・にお家芸のソロバンを仕込まれ、超まじめ。直之の子を直吉、後に成之という。子にもソロバンを仕込むはいうを待たず。直之は家計簿を残した。家計簿をつけることにより一家の借財を、思い切った切り詰め生活で完済していく。

 この家計簿が、後の現代に磯田道史という人が古書店で16万円で買い、長年にわたって研究された。その結果として、映画で私たちが江戸末期のソロバン武士の生活の苦闘を知ることとなる。今年もノーベル化学賞に2人の日本人が入ったし、過去にも多くのノーベル物理学賞学者もだしたDNAが、既に江戸時代に一生を藩の財政計算にささげたソロバン武士にあったのだという。

 金沢加賀藩100万石で150人のソロバン武士をかかえていた。明治の代になって、この後裔たちが軍のロジスティックの算術をまかされたという。金沢の会計人たちは、他国人に群を抜いて優れていたといわれる。見ごたえある映画でした。(10.12.28中川 昌弘)

2010年12月26日日曜日

[本棚から]モーパッサン「女の一生」ささやかな真実 斎藤 昌三訳

 高等学校の頃、その名を知っていた、モーパッサン。「女の一生」を読みました。

 1800年代のフランス、ノルマンディー地方の片田舎でのお話。
 ジャンヌの夢一杯の乙女の頃、いとしの君を想いうかべていた。
 結婚の現実は、夢が幻滅であったことを知る。
 夫の浮気。あきらめ。その後の夫の惨事。
 唯一の希望は子供ポール。ポールの成長後の、母ジャンヌからの離反。
 子を信じようとする母心。孫を得て、自らの継承を確認。
 ついに一生を終える。

 かっての女中ロザリーは、かっての夫の不倫の子を宿し、そのことをもって
 一財産と他の男を与えられ、一家をつくる。
 老後は、傷心のジャンヌの介護をする。ロザリーは語る。

 「人生ちゅうもんは、まんず、人の思うほど良くも悪るくもねぇもんだのう」
(10.12.26 中川 昌弘)

2010年11月3日水曜日

[本棚より]スタンダール 佐藤 朔訳 「赤と黒」

 このほど、スタンダールの「赤と黒」を読みました。高校生の頃、友人が読んでいて、ジュリアン・ソレルという名前は覚えていた。以下は、感想です。今後、読まれる方はあらすじを飛ばしてお読み下さい。

[あらすじ] 1830年代、フランスの片田舎の大工のせがれ、ジュリアン・ソレルは背の高い細身の美青年だった。家庭教師に入った家のレナール婦人と道ならぬ恋をし、パリに出ては、秘書となった公爵の娘マチルドと恋に落ちる。当時のフランスの貴族の女性がいだく、差別感、世間体、高貴な女性の乗り越える幾多の心理的葛藤、ついに2人の愛と恋にジュリアン・ソレルは自らが、断頭台の露と消える結末をもって、小説の幕が閉じられる。

[恋愛小説の一究極]スタンダールの女性心理を透徹した筆力に酔ってしまう。
わが国の平安時代の「蜻蛉日記」、「和泉式部日記」、「源氏物語」といずれが上とも下とも判断できかねますが、違いは、男性が書いているところがミソで、スタンダールの観察眼に感心して脱帽します。読むその年代により、感動の度合いは異なるだろうと思います。それは本との出会いですので、各人のおかれた環境に任されています。名作とよばれているものは、いつ読んでも素晴らしいものが多く、人生を豊かにしてくれます。人生の充実を感じた数日間と読後も心を奮い立たせてくれます。名作ってすばらしいものです。(10.11.3)

2010年10月17日日曜日

[本棚から]ジャン・クリストフ(3)(4)ロマン・ローラン作 豊島与志雄訳

 初め少しを、若い頃に読みました。分厚い本を貸してあげた友の読後の感動の顔が忘れられません。いつか読んでみようと思っていました。その本は捨ててしまいました。


 その後数十年を経て 6ケ月かけて、岩波文庫の(1)(2)(3)(4)を読みきった。

 ジャン・クリストフとは、ライン河沿いの生まれのドイツ人で、純なるこころを持つ人生を闘争する音楽家である。作者の後記によるとベートーベンに境涯は似せているが、厳然と違うとのことだ。

 聖クリストフの像が中世の教会堂(ノートルダム寺院)の入り口に飾られているようだ。そこに「いかなる日もクリストフの顔を眺めよ。その日、汝は悪しき死を死せざるべし。」と言葉が掘り込まれている。作者は1890年から1910年の20年間、片時もクリストフと一緒でなかった日はなかったようだ。20年以上かけて作品は完成した。


 多くの女性を愛し、親友の死をみとり、官憲に追われ、その音楽は酷評に会い、ひるまずヨーロッパ各地に逃亡し、愛する人も亡くし、愛した人々の心と共に生き抜いていく。その死は、再生の予感をもって、闘争の人生を再び生きぬかんとする。


 この長編は、今後の人生でじんわりと教訓を生かしてくれるだろうと思っています。

ノーベル文学賞を獲得した作品でした。(10.10.17)

2010年9月22日水曜日

Let’s watch Movies 「悪人」

 主役の深津絵里さんが、モントリオール映画祭最優秀女優賞を受賞した李相日監督の「悪人」を観た。評判どおの映画だった。

 社会のそこここにいる人たちの現実、「1人ではさびしい、より沿って生きたい。」一方、未来のあるはずの軽くおもしろおかしく生きている若者に問う『失くしたら困る誰かがいるのか』

 それぞれが、人を見下げ、自分が優位であると思い込む。現在の処々方々の片隅に生きる人たちにストーリーに展開される殺人事件の「悪人」は誰かと問いかけつつ、深い言葉をいくつも観客に投げかける。

 現在の社会のひとこまを切り取った映画である。今を、考えさせられる。(10.9.22) 

2010年8月21日土曜日

Let's watch movies 「マイレージ、マイライフ」

 千里中央セルシーシアターでレイソン・ライトマン監督、ジョージ・クルーニー主演「マイレージ、マイライフ」をみましたので 感想を記します。

 話は、アメリカの旅先、空港、空路を我が宿とするリストラ宣告人の主人公の人間は1人では生きられないという悟りを観客にたかりかける映画でした。

 1000万マイルの搭乗記録を唯一の目標として1年320日、空の旅を無情のリストラ宣告をしてまわり、人との接触を極小として、荷物はスーツケース一つにまとめて 常に 体と共にアル。人の付き合い、もち物の極小を誇っている。だが、それで いいのだろうかと ある時以降 きづいていく。

 

 アメリカ映画の主人公は 「生」の中で 友と物を断ち 1人超然としょうとするが、「生」は 1人では過ごせない。伴侶や友がいると 悟り始める。

 インドを今、勉強しているが、ヒンドゥー教徒は、人生の終りに ガンジス河畔のベナレスにいき、ガンジス河に沐浴し、死を待つことを理想としているという。死ねば 川辺で焼かれて灰はガンガーへ流され永遠の輪廻する生死があるという確たるものをもっているようなのだ。


 さてさて われわれ日本人には 100歳を超えて 誰とも 音信のない 人が 多くではじめているという悲しい事実が表に出てきた。

 「生」とはつながりであるということを 知る意味で 貴重な 映画であった。(10.8.21)

2010年8月7日土曜日

紙ヒコウキを飛ばそう-高く遠くへ



 8月6日(金) 10-16時 吹田市立博物館入口広場で さわらびskyクラブが「紙ヒコーキを飛ばそう 高く遠くへ」を実施しました。メンバーの一員として参画しました。

 酷暑の中ですが、9時15分ころから 親子3人ずれが見え 定員60名で 10時 スタートしました。

 メンバーは5名で 4コーナーつくり、その一つを受け持ちました。

 10年5月16日 吹田自然体験交流センターで万博紙ヒコーキを飛ばす会の堀川 栄一氏の「紙飛行機講座」を受け、そのノウハウでヘソ・イカ・スカイはやぶさ を パソコンファイルとして製作してカラー紙で折り紙として用意、別途、長松康男作「とってもよく飛ぶ紙飛行機」上下2巻より27機製作し準備しました。

 62名の(こども41名おとな21名)来場者を得て、特に午前中は多く、集中しました。当日の時間の経過が長く感じました。赤一色のヘソはポピュラーで入りやすく、イカは少しむつかしいようでした。スカイはやぶさは色とりどりで用意しましたが、紙質が柔らかく、飛行方法に柔らかさを求めることになり、改良要と思いました。


 長松康男氏作「とってもよく飛ぶ紙飛行機」は、子供の評判がよく、高く 遠く 時間を気にすることなく 繰り返し、よりどりをして遊んでいました。小学5年生の子が、作りたがりました。部品切り抜き、ボンドで接着と複雑なため、用意しなかったのですが、完成されたものには魅力がありました。さすが、プロの設計したものと感心しました。階段のポスターに張ったぞうさく物ひめボタル2匹につづき、小山館長が、長松氏作2機を貼り付けました。博物館催しに楽しみをひろげています。

 ちょっとしたきっかけで紙ヒコウキの世界に足を踏み入れました。こどもたちの追い求める、より高くより遠くの姿勢に その魅力を感じはじめています。

(吹田博物館夏の特別展「吹田の自然と環境」-ヒメボタルのいるまち-は8/29まで開催中)  

2010年8月1日日曜日

[本棚から]ジャン・クリストフ(2)ロマン・ローラン作 豊島与志雄訳

 ほぼ、一ヶ月かけて「ジャン・クリストフ」2を読んだ。

 ドイツライン河畔に生まれた、ジャンは青年時代を音楽家として自分の思うままに過ごす。音楽評論には、辛辣な意見をはき、宮廷音楽家の地位を追われ、事件を起こし、ドイツからパリーへ逃げていく。

 パリーでも、柔弱な人々にハラを立て、生活に貧しながらも自己を貫く。

多くの恋もする。が、軌道に乗らぬ人生に、歯を食いしばって、耐えていく。2-3人の友をえて、物語は展開していく。


 作者ロマン・ローランは、主人公をドイツ人にしたてて フランスを見つめ 描いていく。

(10.8.1)

2010年7月31日土曜日

Let's watch movies 「インビクタス」負けざるものたち

 初回、封切りを見逃して、千里中央のセルシーシアターでクリント・イーストウッド監督「インビクタス」を観ました。

 南アフリカ大統領ネルソン・マンデラの唱導した1995年南アフリカにおけるラグビーワールドカップ優勝の人種を超えた物語でありました。

 マンデラを演じたのは「ミリオンダラーベイビー」のモーガン・フリーマン、南アフリカラグビーチーム主将にマット・デーモン、マンデラの獄中30年の不屈の精神力「魂の支配者は、己である」他に屈しない精神を主将を通じて、白人主体のチーム(黒人1人のみ)に吹き込んでいく。

 6万5千人の満員のラクビー場の演出はイーストウッド監督はどうしたのだろう、迫力充分でした。

 最初から終りまで結末、南アフリカの優勝、はわかっているが ひきづられていく。優勝戦、ニュージーランドのオールブラックスとの対戦は手に汗を握った。

 80歳に近い、クリント・イーストウッド監督には「己の魂の支配者は己である」ことを映画を通じて実践されている。「硫黄島の砂」「グラン・トリノ」有色人種の問題を常にかかげて、人間の平等を描こうとしている。実に偉大だ。(10.7.31)

2010年7月6日火曜日

Let's watch movies 「告白」

 最近、所属しているNPOの仕事で 多忙となっている。観たいみたいと思っていた「告白」にようやく劇場に足を運び観ることができました。簡単に紹介しましょう。

 ある中学校がその舞台。女性教師の娘が殺された。14歳以下で法の裁きは受けれない。女教師にふんする松 たか子がクールに演じていく。教室は現在を描写して、ざわつき、思春期を向かえ、大人に変わろうとするある期間をとらえている。

 犯人はだれか? 37人の中学1年生の中にいる。この映画の途中で2つの映画を連想した。クロサワの「羅生門」真実は闇の中それぞれの言い分がある。もう一つの映画は韓国映画「チャングムの誓い」イ・ヨンエ主演の報復劇「クムジャさん」しだいに犯人を追い詰め、報復する女性の話。だが、違う。

 犯人はA,Bとされる。中学生が対象とされているが、実はどの世代の人々にも当てはまる。つまり、「世に認められたい」という気持ちだ。年を取ってもいつまでも残る人間の欲望が原点となって、その欲望を洗いざらい追求していくのだ。その中に、現代をえぐつていく。離婚、単身赴任、自己実現への道、どうしても切れない親子関係、新しい世代の芽ばえ・・・

 中島監督の物語の運びはみごとだ。音楽も緊迫感を高める。キャメラもユニークでよい。原作湊かなえ「告白」、詳細を語るには、次に観る人の興味をそぐ。この辺にしておこう。簡潔に思い込みをこめてきそう。「この夏、力作が発表された。」と。
告白(NPOの仕事の合間を見て劇場に走る10.7.6)

2010年6月27日日曜日

[本棚から] 「アメリカ素描」司馬遼太郎

 1989年の発行、昨年末から各年末に放映されたNHKTV「坂の上の雲」の、ロシア軍艦を発注したボストンのアメリカ造船所の風景や、日露戦争講話会議の行われた、ポーツマスの小村基金の話など、面白く再読した。いくつかを拾い出してみよう。

1 アメリカは産業構造の変化をそのまま都市として放置している。東海岸の鉄鋼業でかって栄えたフィデラルフィア-造船・鉄鋼業の廃墟がそのまま-他にも自動車のデトロイトも荒廃が進んでいるだろう。
2 西部のカリフォルニアでは、雨の降らない砂漠地帯を、地下水をくみ上げて、農作物を収穫して、世界に供給している。
3 ニューヨークでは、投機を商品化して金融増殖しているが、あれでいいのだろうかと、リーマンショックの約20年前にその危機を発言している。
4 前文で書いたが、日露講和に世話になったとして、日本全権大使の小村寿太郎が、基金を提供して、1989年当時も運用されているとのこと。
5 WASPとよばれるプロテスタント系のアングロ・サクソンの主流白人に対して、カソリック系の白人アイッシュの話。
6 ゲイが自らの主張を通して堂々と町を闊歩している話。

 司馬遼太郎氏が、2度にわたるアメリカ旅行で、感じたことを文明批評的に書いている。それは日本にも響いているし、アメリカ自体にも問いかけている。1989年当時、ビジネスの世界まっただ中での第1回目の読書、「品質」のところにメモを挟んでいた。それから20年、アメリカの金融危機の後に、アメリカの混沌とした実態がわかって、読んでみたが、司馬遼太郎氏の慧眼は今をも見据えています。むしろアメリカよりこんとんとした次代のお金の先食いして環境を悪化させている、「日本素描」が誰かの手によって、世に出されることを求められているようだ。(10.6.27)

[本棚から] 「アンクル・トムの小屋」上・下 ストウ夫人

 1850年当時の北アメリカ、ケンタッキー州、ルイジアナ州のニュー・オリンズに展開される、奴隷たちに愛惜の眼で眺めた物語です。縦糸は「アンクル・トムのキリストへの深い信仰心」、横糸は、親子がひきさかれる悲しい様々な奴隷たちの登場でした。

 しいだけられる黒人アンクル・トムにとって、聖書は、はだみ離さずもつ唯一のやすらぎの源です。しいたげる白人奴隷主に、むちうたれても白人奴隷主へ神への赦しを、願います。これほどの神への愛があったこと、それはストウ夫人の「奴隷制度へのにくしみ」と「キリスト教」への帰依が、この小説をつくらしめ、書かずにはおられない怒りの決意が時代を超えて今だに、こころに響いてきます。

 この小説が書かれた後、1861年、南北戦争が起こり、1865年北軍の勝利の後に、奴隷制度が廃止されました。

 私たちは、時代に何かを訴えねばならないという熱い想いを、持つべきだとこの小説は教えてくれます。ストウ夫人(1811-1896)

2010年5月26日水曜日

[本棚から] フォレスト・カーター著「リトル・トリー」

 1996年、横浜で単身赴任していたときに読んだフォレスト・カーター(1925-1979 インディアンの血が入っている)著「リトル・トリー」を1日1章で再読しました。純真なインディアンの生き様に目から鱗の気持ちとなり、心が洗われました。

その内の3章の挿話をご紹介しましょう。

 1839-40年13,000人のチェロキーが集団ごと順次オクラホマの保留地に強制移住された。この行進は涙の旅路と呼ばれている。(4,000人がなくなった)リトル・トリーの祖父の父がその中にいた。全てのチェロキーがそうしたわけでなく、祖父の父(仮に名をビッグトリーとしておこう)は、途中にとどまって自活した。とある木の下にあるかすかなしるしをみつけた。ビッグトリーは鹿の肉と銃とナイフをおいておいた。次の日、鹿の肉はなくなっていたが、銃とナイフはそのままで、新しく別のインディアンナイフとトマホークをみつけた。そこでビッグトリーは、とうもろこしを足してそこにおき、一日そこにいて、印の主を見つけた。その一家は12人の人達だった。末娘と先々結ばれた。ムクドリモドキの羽を髪に挿していたので「レッド・ウィング」とよばれた。柳のようなほっそりしたからだつきの娘で、いつも夜になると唄を歌った。
(ものをそっと人目につかずおいて、あげたともいわず、黙って立ち去る心と心を通わす控えめなインディアンの流儀に心うたれる)

 次はリトル・トリーががらがら蛇に襲われた話です。

 リトル・トリーは不気味な音を聞いた。正面を見ると、ガラガラ蛇が音を発しながら、リトルトリーをにらんで鎌首をもたげている。そばにいた祖父が「じっとして、目をそらすんじゃない」といって、リトルトリーと蛇の間に手を差し入れた。しばらくの後、蛇は祖父の手をかんだ。祖父は振り落とそうとして片方の手で頭を押さえつけた。ガラガラ蛇は祖父の腕に巻きついてあばれた。やがて、祖父は勝ったがその場でうずくまった。トリーはあわてて祖母を呼びに行った。大急ぎでかけつけた祖母はかまれた祖父の手をナイフで切りさき、血を吸い出しては吐き出した。なんども繰り返し、小康を得た。つめたくなりかけた祖父の体をトリーは体をよせ温めた。祖母は着ていた服を脱ぎ、祖父に着せ、自分も裸となり、祖父を温めた。祖父は一命をとりとめた。トリーは「すまない、おじいちゃん」といつた。祖母は「おじいちゃんが蛇にかまれたのは誰のせいでもない。起こったことは誰のせいにしても始まらない。」といった。


 もう一つは、ローソクと星の話です。

 あるユダヤ人が、リトルトリーの家でろうそくをともしてお祈りした。トリーが言った。「何をしているの」
家族が離れていても、同じ時間にローソクをともしてお祈りすると、
はなれていても一つになれるのだよ
リトルトリーはろうそくのかわり、天狼星を見て祈るから、と祖父にも見てほしいと頼んだ。
リトルトリーは孤児院にいれられた。
天狼星を見てがんばった。星を通じて心を通わせた。一人ではない。つながっている。

 心の内にある本それが「リトルトリー」です。リトルトリーは木と話が出来ます。鳥とも会話できます。インディアンは自然と共に生き、自然を大切にする「環境」のことを教えてくれる本でもあると思いました。(10.5.26)

"Let's watch movies"「RAILWAYS」【レイルウエイズ】

 先日、ウメダピカデリーで「RAILWAYS」の試写会をみました。

 仕事に猛烈に励む49歳の一人の男がいる。工場閉鎖の大役をになわされ、成功すれば、取締役の地位が目の前にある。妻は、ハーブの活用に凝っている。娘は、大学生で就職活動に入ろうとしている。

 どこにでもある 日本の一風景である。

 その男のふるさとは出雲だ。小さい頃の夢は電車の運転手になることだった。母の病状が思わしくなく、業務多忙の中、出雲に帰った。・・・・・・

 男を演じるのは、中井貴一、男の妻は、高島礼子、娘を演じたのは本仮屋ユイカ、「大人が夢を見てもいいんですね」49歳が電車の運転士に大変身する物語だ。

 この映画のよさは、男の夢に焦点を当てながら、それぞれの生き方にもマルチフォーカスして生き方を見つめるようにしていることだ。

 製作総指揮は阿部秀司 監督 錦織良成 5/29より。 RAILWAYSレイルウエイズ

2010年5月25日火曜日

"Let's watch movies "「クロッシング」

 北朝鮮の脱北者を描いた、(2008年)韓国映画「クロッシング」107分‎‎ - 社会派ドラマ‎ - 監督: キム・テギュン - 出演者: チャ・インピョ他を シネマート心斎橋で見た。簡単に感想を記す。

 新聞、TV等の情報で知っていた、中国との国境に近い北朝鮮の実情が、赤裸々に描かれていた。食事と薬に困る人達、浮浪者と化している子供の悲惨な姿、強制収容所の人々の日常の労働と、不潔な環境、中国国境の河を夜陰に渡る人達、中国にわたると物質で溢れる町、ようやくたどり着いた、韓国の豊かさ。

 同じ人間が、北でいたときの食生活と南での飽食を経験する、理不尽な現実を、「神様、あなたはどう思うのですか」と聖書を手にして問う姿に、思わずドッキリとする。朝鮮にキリスト教が普及していることがうかがえもする。

 国は変わっても 家族のことを思う想いは一緒なのだ。政治体制の違いが生んだ、地獄と天国、人間、国、の落差をつくづく感じ、今、日本にいる幸せを思う。

 いつかは どうにかなる 南と北 だろうが、「クロッシング」してはじめて知る この現実、いたましい。 韓国の人達が描くが故に、せつなさがある。 「クロッシング」(10.5.25)

2010年5月19日水曜日

"Let's Watch Movies" 「オーケストラ!」

 久し振りのことです。 「笑い、 泣き、 感動! 」しました。

 映画はロシアでの 元指揮者や元音楽家の 冴えない日常が 1枚のFAXに 発想した 奇想天外の パリの ブレイエル に 出演しょうとする 物語だ。

 それは ・・・・・

 ボリショイ交響楽団で劇場清掃員として働いていた、元ボリショイオーケストラの天才指揮者だった中年男アンドレが、偶然目にしたFAX「ボリショイ交響楽団へのパリでの公演依頼」の虜となり、かっての音楽員今ではタクシー運転手、蚤の市業者、ポルノ映画の効果音担当者・・・に声をかけ、実現に向かっていく。

 そのマネージャーには、アンドレのかっての夢をくだいた共産党幹部をマネージャとして起用し、共産党幹部はパリでの国際共産党大会の出席に"夢"を持ち、アンドレはチャイコフスキーのバイオリン協奏曲再演の"夢"をもち、それぞれのパリに結集する思いを実現に向かう。・・・・

 もう一つの主演者は音楽だ。チャイコフスキー「バイオリン協奏曲」を軸に、モーツアルト、バッハ、ドビッシー、マーラー・・・

 驚きがいくつも埋め込まれている。初めは単なる辻弾きかと思っていたバイオリニストが、天才的な技を披露する。他にもいくつかある。

 監督・脚本 ラデュ・ミヘイレアニュ 主演 アレクセイ・グシュコフ 「イングロリアス・バスターズ」のメラリー・ロラン フランス映画2009年124分。


 大阪では梅田ガーデンシネマで上映中です。HP音が出ますがご参考下さい。


 卯月曇り 妻と一緒に 「オーケストラ!」 (10.5.19)

2010年4月30日金曜日

[本棚から]ジャン・クリストフ(1)ロマン・ロラン作 豊島与志雄訳

 青年時代に読み始め、少し読んでそのままにしていました。1ケ月前より毎朝読書として第1巻を、読了しました。第1巻は、ドイツライン河畔で生まれた、ジャン・クリストフの青年になるまでの物語。音楽家をめざし、宮廷音楽家となる。おりおりの悩み、友情、恋愛、信仰と誰にでも起こりえることがらが緻密に展開される。第1巻の終りで、恋愛に傷つき、悩んでいるとき、叔父がジャンに語るところを記載してみよう。

 「日の出に対して、信心深くなければいけない。1年後のこと、10年後のことを考えてはいけない。今日のことを考えるのだよ。理屈を捨ててしまうがいい。生活に無理をしてはいけない。今日に生きるのだ。その日その日の信心深くしているのだ。その日その日を愛し、尊敬し、花を咲かせるのを邪魔しないことだ。(中略)信心深くありさえすればよい。待つのだよ。お前が善良でないなら、弱いなら、成功していないなら、それでもそのまま満足していなければならない。それに何故、それ以上を望むのか。何故できもしないことをあくせくするのだい? できることをしなければならない。 我がなし得る程度を。」

 青年に、こんこんと説く叔父の説得にロマン・ロランのメッセージがありそうだ。(ロマン・ロラン1866-1944 は「ジャン・クリストフ」でノーベル文学賞を受賞した。フランス人。)(10.4.30)

2010年4月8日木曜日

"Let's watch movies "「花のあと」

 桜のはなびらが、風に吹かれて飛び流れる時、映画「花のあと」を思います。

監督 中西健二 主演 北川景子 甲本正裕 宮尾俊太郎 原作 藤沢周平

一剣まじえるとき かいなを掴まれた剣士に 恋をした 乙女。

定められた 愚直な 未来の夫との 葛藤と 東北海阪藩にまきおこる不正に厳に対する 二人。

市川雷蔵に 似た 宮尾俊太郎 と 北川景子の静と動 


はなびらや 風にながれて 「花のあと」

この一本 おもしろし です。

(梅田ブルグ他公開中です 詳細 「花のあと」公式HPはご参照ください。) 

2010年3月6日土曜日

(思い込み古代史) 17. 古代史の総括

 天皇親政は、聖武天皇から、女帝孝謙天皇へ移り、道鏡が病気治癒といって孝謙天皇に接近して、法王までのぼりつめ、称徳天皇(孝謙天皇重祚)の崩御で道鏡は地位を失ってしまう。その後、百済系の高野新笠を母とした、桓武天皇が即位する。弟の相良親王を皇太子としていたが、奈良の仏教勢力から距離をおくため、784年、長岡京に遷都をするが、遷都に際して藤原種継の叛乱があり、連座して相良親王が罪を着せられ、廃皇太子となる。これらの出来事に、嫌気がさし、桓武天皇は京都平安京に中国の都、長安を模し、794年遷都をした。当時、疫病がはやり、母や皇后も死に桓武天皇は苦しんだ。占ってもらったところ、相良親王の怨霊がたたっているとの宣託をうけた。配流地の淡路に手厚く葬りなおしたのだった。平安京は風水上で優れたところと見立てられ、その後1000年の都となった。

「もの」のあわれ、「もったいない」思想の源流

 縄文時代から、奈良時代までの日本の基層文化に、現在現れている諸相(「もの」のあわれ、微細技術、もったいない思想他)の原点があるのでしょうか。

1. 縄文人は、自然の恵みに生かされた。森の恵み=どんぐり=を食し、森の栄養一杯な川には鮭鱒が上ってきて川と海の幸をいただけた。アイヌ人がそうであるように、万物の命を尊ぶ精神が養われ、現在に繋がっています。緑が国土の約70%弱をキープできているのは、そのような自然信仰があったからと思える。自然信仰は自然の個々に魂が宿るという精霊信仰といえる。また、海洋民族としての入れ墨文化等は、魔よけとして絶対的な神への畏れと憑依の気持ちの表れではないでしょうか。

2. 反面、自然に生命がある(神が宿る)という考えは、論理的な思考の結果ではありません。願望であり、包括的な概念です。思考・激論の後の答えではありません。日本語は、会話による思考の交歓・練成が少なく、一方的な伝達に向いていると日本語を学んだ外国人がいっています。また、日本語をしゃべるとやさしくなるといっています。論争用の言語でない。思考が内攻すれば、原子の世界の構造解明という理論物理学でノーベル賞学者を多く生むことにつながっています。
 統治の手段として神が宿るべき「もの」が必要となり、祈る対象としての出雲文化圏の銅剣銅鉾、近畿文化圏の鏡・銅鐸の神格化と銅鐸の地下への埋納は「もの」へのこだわりを生んでいます。卑近な例で感じますのは、NHKTV「龍馬伝」とNHK衛星TV韓国ドラマ「イ・サン」を比べますと、「龍馬伝」は主人公や一人の詠嘆の映像が多く「もの」や風景を映し、「イ・サン」は主人公たちの激論と感情推移が映し出されます。普段、感情の葛藤・激論にさらされていないため、むしろ感情表現の「イ・サン」に引き込まれ、「龍馬伝」にものたりなさを感じるのは、裏返しの日本人の感情なのでしょうか。飛躍しました。日本人は論理思考に弱く、寡黙となりその分、「もの」に向かいます

3.縄文時代は、争いがすくなかったと想像します。ところが、稲作技術が大陸・半島より伝来し、物質的に貧富の差ができてくると、争いが起こります。紀元前後は100余国にわかれ、境界線は溝を掘り、逆も木を配して、人々が争いました。これに一つの終止符をうつのが邪馬台国の卑弥呼でした。卑弥呼亡き後、再び乱れます。我々の祖先は、その言語の特性もあり、話し合いが不得意で、言葉がまわらない結果、手が出ます。6世紀ごろ、百済から傭兵として倭の人々が雇われ、軍事行動集団として、活躍?しました。もっと時代が下ると、倭寇として、指揮官の扇の一振りで、整然と侵略行為を働いたようです。江戸時代は侍が2本刀を持ち、いざというと切腹という極端な心の論理を持つに至っています。赤穂浪士の討ち入りを美談として、現在までも称揚しています。先の大戦も、話し合いができず、国際連盟をかっこよく?脱退して孤立し、アメリカとも話し合いを成立させず、開戦に踏み切り、惨憺たる結果を国民に強いました。武に訴える、極端性を奥底に秘めていると残念ながら考えます。儒教で言う、中庸が、なかなかできない民族性をもつているようですので、注意したいです。

4.精霊崇拝は、時代が下り、古墳の出現で首長霊崇拝にもなっていきます。神社も、その変形融合したものと思われます。仏教の伝来・普及とあいまって、一般家庭には、祖先霊を崇拝するものとなっていきます。現代でも、神木や神石、山じたいがご神体の例があり、古来、神しかなかったところに、仏が入ってきて中世以降、神の上に仏が存在し、神に仏の位をさずけたりします。明治時代の到来で神が仏の上位となる廃仏毀釈が行われます。先の大戦に敗戦後は、仏が復権して、神も仏も、各々その位置を得ます。しかし、大筋は、祖先霊崇拝は仏がになっていて、現世利益は神様が担っているのではないでしょうか。私事ですが、毎朝、仏様に先祖の霊がおだやかであることを祈り、お世話になった亡き人々のご冥福を祈り、座禅を組み、宇宙の一単位として、道元禅師の教えにそつて自らが仏であると一瞬のことですが思います。そして、戸外の大気を吸い、腹式呼吸して天に向かって天空に宿る神に、課題の解決と世界平和を祈ります。先人たちから、めんめんとして続いてきた命の一しずくとして未来へつながっていきます。

5. 縄文土器の豪放さは、世界にも類がない前方後円墳の巨大化群、奈良の大仏、戦艦ヤマトに豪放の一点集中主義の発展的形態として見られます。これは洋々とした海を常に眺めうる海洋民族の故の心の広がりを表すのでしょうか。豪放さはおおらかさにつながり、このような感情は「万葉集」にも残っていますが、多くのものの犠牲の上になり立つ脇の甘さを伴っています。

6. 縄文土器に網目等の飾りをつけたのは繊細な感情の表出でしょうか。時代は下って古墳時代にあらわれる、当初のいけにえに代わって埴輪群は、始皇帝の権力の権化としての兵馬ようと異なり、故人へのきめこまやかな情の表れといえるでしょう。時代を経るごとに、繊細さが磨かれ、飛躍しますが茶の湯、華道等の様式美を作っていきます。

7. 「もの」へのこだわりは、「物体ない」(もったいが甚だしい)という感情を生み「もったいない」という節約精神につながっていきます。現在の例では、「もの」の在庫を最小に押さえる生産技術を開発したトヨタ生産システムとなっていると考えます。自己の「もったいない」が他者に製品に犠牲をしいることがあってはならず、いきすぎると製品のリコール問題という結果を招きますので、「もったいない」は、ほどほどの調和が前提だと思います。

8. 「もの」の上位が「論理」とすれば、「論理」への階段を登る過程を経ていませんので、理づめで物事を議論し深く考えず、「和」というぼやっとしたまとまりを重視します。そのためにコンセンサスを重視、腹芸、以心伝心という非論理的なことを周知のこととして相手に、要求します。

9. 故江上波夫氏の唱導される騎馬民族征服説に特有な他に学び、よいものを取り入れる伝統は、稲作の導入に始まり、青銅、鉄、治水、機織、瓦、須恵器、・・・漢字、仏教・・・の文化の輸入に積極的で、渡来人の寄与は大きいものがありました。中国にも遣隋使、遣唐使が派遣されます。他に依存するという精神性を基層とします。また、他に学ぶという姿勢は、元が無いということの裏返しとなり易く、とかく、自分の考えを持たず、付和雷同となりがちです。あの大戦争を日本人が、何故起したかと反省すれば、NOと声高に言う人が少なく、大勢に流された結果だと思えます。

10. すべてのものを大切にし、「もの」に生命やあわれを感じるのが、平安時代以降「もののあわれ」となる伝統となります。「もの」にこだわる日本人の特性が、文化面では「もののあわれ」として、縄文~弥生~古墳~飛鳥・白鳳~奈良時代に生まれたと思えるのです。

 以上は他の読書で得た知識と古代史を通過しての所感、感じるままです。日本人とはなんぞやと考える時、その特質を理解して、対処すれば、無防備であるより、よいと思います。


 天皇家が3世紀以降祭祀を軸として権力を握っていきますが6-7世紀に、天皇家外戚に権力が移行し、揺り戻しで7世紀後半、天智天皇、天武天皇に権力が集中します。その後も天皇に権力が集中しますが、平安時代を経て天皇家の外戚として貴族が、鎌倉時代には武家が権力を掌握していき、天皇と時々の権力が二重の構造を作っていきます。

 平安時代以降、天皇は元々の祭祀に特化し国民の精神的支柱となっていきます。中世は古典文学を勉強し、後日、稿を重ねればいいなと思っています。

 つたないエッセーにお付き合いいただきました。ご愛読いただきました皆様に感謝申し上げます。 [歴史を辿るエッセー]上 (終)

(思い込み古代史) 16. 752年 「大仏開眼」

 552年、百済の聖明王が仏教を伝えた。渡来系の蘇我氏が仏教崇拝し、排仏派の物部氏の排除に成功する。その後、聖徳太子が仏教に帰依し、高句麗僧の指導を受けて三経ぎしょう(維摩経・法華経・華厳経)を著します。仏教寺院も創っていく。仏教は、国家の守護の元に、仏教によって、鎮護国家をしょうとして、地方には国分寺と國分尼寺もつくられていきます。

 天智天皇から弟の天武天皇に皇統が移って、天武天皇と持統皇后(後に天皇)との長子で28歳で没した草壁皇子系統の、文武天皇が697年に即位します。藤原不比等の娘、宮子が文武天皇の妃として入第します。このふたりの間に生まれたのが聖武天皇で、不比等の別の女性に産ませた後の光明子が妃となります。ここにいくまでには、天武天皇の他の皇子の陰に陽にの反目活動がありました。依然として兄弟に皇位をゆずるべしとの考えも強かったのです。有名な事変は「長屋王の変」でした。長屋王は天武天皇の高市皇子の子ですが、聖武天皇の皇后に光明子がなることを「光明子は皇族の娘でないとして、皇族が皇后になる、との前例に反する」と反対を表明します。729年、長屋王は国家転覆の計画有と密告され、濡れ衣をきせられ、自死においやられます。

 藤原氏は外戚として、しだいに宮中に入っていきました。いろんな課題と悩みをかかえていたと思われる聖武天皇は740年、平城京から難波の宮に行幸した。その途中、河内国大県軍の知識寺の本尊を礼拝し、深く感動された。その時から聖武天皇が毘盧遮那仏をつくろうという思いをいだくいたった。743年、華厳経の教理に基づいて東大寺に毘盧遮那大仏を造る詔を下した。4年後着工し2年の工期8回の鋳継ぎを経て752年に開眼供養がおこなわれた。大仏殿は、文献によると749年に着工され、758年に竣工している。約86メートルx50メートルであった。聖武天皇はいろいろと迷いの多い方であったのでしょうか、その一つが皇位継承問題と想像され、(藤原系の光明皇后との子孫に引き継ぎたい思いがあったが、男子は幼少で死に、阿部内親王が生まれた。・・・後に、748年孝謙(764年称徳)天皇として女帝として即位、天武天皇系統がとだえ、天智天皇の、志貴皇子(いわばしる 垂水の上の さわらびの 萌えいずる 春になりにけるかも が万葉集に残されている。)の子が770年、光仁天皇として皇統が戻り、現在の天皇に続く。)740年平城京から恭仁京、難波京、紫香楽宮を転々とし、最後に745年平城京に戻ってきます。仏教を国家鎮護の根本のものとして自らの迷いも封じ込めたのでしょう。この間、陸奥の国守百済王敬福が黄金900両を献上した。大仏開眼はインド僧菩提遷那を導師に、中国、朝鮮の舞や音楽で祝われ、導師の筆に結び付けられた紐には聖武太政天皇、孝謙天皇、光明皇太后が連なっていて。まるで華厳の世界を現出しているようだったでしょう。各地域に設けられた国分寺、國分尼寺の頂点が東大寺だったのです。

 この頃の貴族の生活と、下級官吏の生活がどのようなものであったか、栄原 永遠男著「天平の時代」より食生活を紹介しましょう。

【長屋王】1988年に発見された平城京3条2坊にあった長屋王邸内の木簡によれば、あわび、各種野菜、蘇(牛乳を1/10になるまで煮つめたもの)その他豊富な食材を指定農地で栽培したものを食していた。邸宅は4町(約6万m2)東京ドームの約1.3倍でした。中央内部の中心的な建物は360m2の床面積でした。

【写経官吏】1日2食(白米と野菜海藻2皿)昼におもち出ることありで写経所に何十日も、泊まり込みで写経。家には、数日、病気届で帰れるのみ。腫瘍がよくでき、大変不潔であったよう。家族の住む宅地は中心部から離れているが、375m2-190m2であったと想像されます。

 律令制がひかれ、きつちりと租庸調がとられ、貨幣経済がスタートしはじめているが、大変庶民の生活は苦しかったようです。8000人程度の中央官吏で、日本が動かされていたよう。平城宮は人口10万人程度だったようです。

 国にとっても、庶民にとっても仏様がたよりだったのでしょうか、国乱れかけて孝子あらわる。庶民派の高僧となった人に行基がいます。布施屋をつくったり、道をつくったり、大仏勧進をされたりしました。聖武天皇は日本に大仏を作り、(1180平氏の焼き討ちで焼け、鎌倉時代に再建、戦国時代に又焼かれ、江戸時代の元禄期に再再建)光明皇后は、正倉院を残しました。財政が破綻寸前までいたる、不安を解消させるための膨張政策でした。しかし、現在まで人々に癒し続けていることは誠に立派なことだと思います。

 現代に置き換えると、ダムとかコンクリートのものは残っているが 1000兆円にも近々達すると思われる借金財政、増税は必須、官僚機構の統治の簡素化が、すぐにも始めなければならないのでしょう。そんなことが遥か13o0年前のことを考えると、焦燥感にかられます。「思い込み古代史」も平安時代が、すぐそこに近ずきましたので、次回で総括し、このシリーズのキーをおきたいと思います。

(参考図書 「天平の時代」栄原 永遠男 他)

(思い込み古代史) 15. 672年 「壬申の乱」

 吉村武彦著「古代王権の展開」より672年におこった、壬申の乱の経緯を写してみよう。

 「671年天智帝の様態が悪化した。そこで大海人皇子が病床によばれ、後事を託された。大海人皇子は子供のいない皇后倭姫王の即位と大友皇子の立太子を進言した。暫定政権の提案をし、天智のために出家して修行すると申し出、ただちに宮殿内の仏殿でひげとかみを剃り、天智から与えられた袈裟を身につけた。2日後、吉野での仏道修行を許されると、即日、島の宮(明日香村島庄)へ急行した。時の人は「虎に翼をつけてはなてり」といったという。大海人は吉野宮に向かった。」

 天智天皇薨去後の近江朝廷では、大友皇子が皇位につくべく、諸策が練られていたであろう。再び、吉村武彦著「古代王権の展開」よりその後の経緯を伝えよう。「近江朝では、天智陵の造営で民衆を挑発、武器をもたせているという。大海人が吉野に去って6ケ月経っていた。大海人皇子は伊勢、三重の東国入りを敢行した。 鸕野(うの)皇女(後の持統天皇)10歳になるかならぬかの草壁皇子と忍部(おさかべ)皇子、20余人の舎人、10余人の御宮の宮人が従った。途中、高市皇子とも合流し、豪雨の中も急行し、伊勢神宮に向かって遠く遥拝、大津皇子は鈴鹿関に到着、先発隊が不破道を防いだことも大海人に伝えられていく。」

 大海人動くとの報は大友皇子側にもつたわったはずだ。「群臣ことごとく怖れをなし、京の内騒ぐ」と「日本書紀」に記されている。対応策を協議する大友皇子の諮問に、一人の臣が、すみやかに騎兵により追撃を進言するが、大友皇子に受け入れられなかった。大友は国評(こおり)制で地域行政機構より兵を募ろうとして正攻法の戦いに勝利しょうとしたと思われる。しかし、吉備と筑紫で功を奏せなかった。大友軍は内紛もあり、結局、敗走し、大友は山前(大山崎町か)で自刃する。

 皇位を継いだ天武天皇は、飛鳥浄御原(きよみがはら)に都を置き、天皇に権力を集中させ、親政をしき、支配層は皇族で固め、律令体制へ漸進していく。679年、天武帝は持統皇后、草壁皇子、大津皇子、竹市皇子、*川島皇子、忍部(おさかべ)皇子、*施基皇子(*は天智帝の子)をひきつれ吉野宮に行幸した。皇子たちに千年後までの事なきを問い、6人の皇子の協同の誓いを約束させた。衣服の襟を開いて皇子たちをだきしめたといわれる。

 伊勢の勢力が、大海人の陣営に加担したことにより、大三輪神社にあった、天皇家をまつる祭祀が、伊勢神宮に移ったと考えられます。

 天武帝の大きなの仕事の一つは、国史の編纂指示である。世紀を越えて、712年「古事記」として720年「日本書紀」として大王家に伝わる歴史や、有力氏族に伝わる伝承を統合した日本史が編纂される。上述のように壬申の乱が詳細に経過がわかるのも、当時の現代史として、反乱ではない正当性をもたせる意味もあり、相当詳しく記録されている。

 唐・新羅からの侵略防止対策としてのインフラ整備として09.10.12放映のNHK衛星TV「古代の大道」によると総長6300km(現在の高速道路6500km)、巾12-14メートルの大道をつくったとのことでした。専門家の試算では延べ3000万人の動員があったとのことでした。この大道を通って、都の情報を地方へ、地方の租税が都へ上っていったのでした。しかもこの道は下層に枯れ木枯れ枝を敷き、両側に溝を掘り、何層も土をかためたものでした。68の国府をつないでいました。大化改新ごろは道の駅家(うまや)には馬を常備し、宿泊施設をもって官人の公用していました。30里(約16km)毎に駅家を設置することを原則にしており、当時の権力が大きな力をそなえていたことがわかります。

 古代大道を誰が設置の指示をし、いつ完成したかは不明ですが、大道はいずれその用を終り、農地等に転換されていきます。このような力は。663年、朝鮮百済の急援軍を出した白村江の戦いで2万8千人もの兵を送り込んで敗れますが、その後の対策ともいえましょう。今から考えるとびっくりするような実力が古代にはあったようです。

 東アジアを意識し、律令制度の整備を進め、国史を整理統合発刊指示をだし、大和から日本として飛躍させたのが、天智天皇の後を引き継いだ、天武天皇であったと思います。

 本稿の多くを吉村 武彦著「古代王権の展開」に依存しました。(参考 NHK10.12放映「古代大道」図書「日本史」新人物往来社 「古代王権の展開」吉村 武彦)

2010年3月5日金曜日

(思い込み古代史) 14.  645年 「大化の改新(乙巳の年のクーデター」

 聖徳太子が遣隋使を派遣し、17条の憲法を作った後、天皇家は蘇我氏に外戚として牛耳られてきました。高校生時代、「大化改新虫5匹(ムシゴヒキ)」と645年のことを覚えたものでしたが、皇極天皇の同母弟軽皇子(孝徳天皇として即位)、皇極天皇の長子、中大兄皇子(なかのおうえのおうじ)と中臣鎌足らが天皇家をわがものにするような権勢を誇る渡来系の蘇我氏を打倒したものでした。三韓の使者を迎える儀式で蘇我入鹿を韓人が討ったのです。古人大兄皇子(舒明天皇の皇子)が「韓人、鞍作臣(蘇我入鹿)を殺しつ、わが心痛し」と現場に居合わせ、自身の宮に逃げ帰って家人に告げた、とあります。この後、入鹿の父、蘇我蝦夷は自刃しました。

 中大兄皇子は天皇を圧迫する外戚の勢力を駆逐して、天皇に権力が集中するように、唐の制度を参考として、律令制(律とは刑法、令とはそれ以外の国家的基本法)を作っていきます。646年(①公地公民制・・・土地人民が豪族の所有地・民から天皇に属するように考えた②国郡里の行政制度の導入③班田収受制④租庸調の税制統一・・・戸籍がつくられます。)大化改新後、孝徳天皇が皇位を継承し、難波に都を移しますが、後に、中大兄皇子が百済・倭軍が663年白村江(はくすきのえ)で唐・新羅軍に敗れ、668年天智天皇となり、近江に都を移し、長子天皇相続の不改常典をつくり、権力の中心となり、日本の統治機構の基礎をつくったといえましょう。年号は大宝律令以降、制定されますが、「大化」という私的年号で大きく化する節目を強調したようです。吉村武彦氏によると、「乙巳の年のクーデター」は、①唐の強大化②朝鮮半島の情勢(百済の弱体化)③国内の天皇外戚の圧力 等の諸点より背景を見なければならないといわれている。

 「万葉集」は630年頃から759年までの歌が約4500首収録されていますが、上は天皇から下は防人までほぼ全階層を網羅しています、国民的な文化的財産です。「雑歌」の中の額田女臣(ぬがたのおみ)と天智天皇の弟、大海人(おおあま)皇子(後の天武天皇)の2首を取り上げましょう。額田女臣と大海人皇子の間には十市皇女(といちのひめみこ)が生まれていた。後に、額田女臣は天智天皇の女となる。またその後に、十市皇女は天智天皇の子の大友皇子に嫁す。

 あかねさす 紫の行き 標野(しめの)行き 野守は見ずや きみが袖ふる(額田女臣)

 668年5月5日、天智天皇は滋賀県の蒲生野の標野(一般の人が入れない、しめ縄で区切られ番人がいる。)で薬猟を行った。女性が薬草をとり男性が狩をする。狩をしていた大海人皇子が天智天皇の妃の一人の額田女臣をめざとく見つけて、袖を振ったのを野守が見ませんでしたか、と問う歌です。これはその後の宴会で歌ったようです。万座の中で大海人皇子が返歌します。

 むらさきの 匂えるきみを にくくあらば 人妻ゆえに われこいめやも

 堂々と、人妻だけれど、恋するよと額田女臣に返歌します。これらの歌が「相聞」に分類されていないので、相聞歌とは見られていません。

 天智天皇は、はじめのうちは後継者を弟の大海人皇子としていましたが、しだいに、自分の子の大友皇子に天皇をつがせたくなり、太政大臣を制定し、任命します。また前述の皇位が長子に移るという「不改常典」もつくられますので、身の危険を感じた大海人皇子は頭を剃り、吉野に引退することを天智天皇に求め、了承されて、吉野に隠棲します。

 次回でとりあげますが、大海人皇子は天智天皇没後の672年、壬申の乱をおこし、天智天皇の子、大友皇子に勝利し、天武天皇となります。大化改新で天皇に権力は集中しましたが、天皇家内部の骨肉の争いのたえぬ時代でした。(参考図書「古代王権の展開」吉村武彦 「日本史」新人物往来社 JTB「万葉集への旅」新人物往来社「日本史」他)


 

2010年2月28日日曜日

(思い込み古代史) 13. 552年 「仏教伝来」

 「日本書記」によると552年、百済の聖明王が、外交ルートを通じて、仏像・経典・僧の3宝を伝えた。朝鮮半島の西南の百済は同北部の高句麗を脅威として、倭とつながりを強固にするために政策的に仏教を利用したのである。

 継体天皇と手白香皇女の子の欽明天皇は群臣に「仏の相貌はまばゆい、これに礼すべきか否か」と問うた。蘇我稲目は、中国、朝鮮の国々で礼拝されているので、倭国でもそうすべきである、と答えた。物部氏や中臣氏は蕃神を礼拝することで、国神の怒りを怖れて反対した。倭の神は、姿を見せない、蕃神は姿を見せた、と驚いたのである。

 崇佛派の蘇我氏と排仏派の物部氏は、用命天皇没後の天皇後継者擁立の問題で対立したのであった。当時は、弟か大兄が継ぎ、群臣の賛同が必要だった。

 物部氏は欽明天皇と小姉君の子、大兄ではない穴穂部皇子(あなほべのみこ)の擁立をはかり、蘇我氏は欽明天皇と堅塩姫の子で用命天皇の妹、額田部(ぬがたべ)皇女を奉じた。

 587年、物部守屋側と蘇我馬子側で戦端が切られた。馬子側の厩戸皇子(うまやどのみこ)(後の聖徳太子)は霊木で仏教の守護神、四天王像を彫り、自らの頭髪に安置して「我に勝ちを与え賜れば寺塔を建てる」と誓う。馬子側が勝利した。後に建ったのが、大阪の四天王寺である。馬子も飛鳥寺を建立する。額田部皇女の即位は見送られ、穴穂部皇子の弟の泊瀬部皇子(はつせぶのみこ)が崇峻天皇として即位した。

 592年、蘇我氏が専横して思うようにならないのを献上された猪を見て「いずれの時にか、この猪のように朕が嫌なひとをきらむ」といったのを大伴小手子が蘇我氏に密告した。馬子は事態を重く見て一族を集め謀議し、崇峻天皇を暗殺する。

 額田部皇女が推古女帝として即位する。593年、厩戸皇子(うまやどのみこ)(聖徳太子)が 摂政となったのであった。603年、17条憲法をつくった。全体として「和を持ってとおとしとなす」「国に二人の君非ず、民に両の主なし」「諸の官に任せる者、同じく職掌を知れ」と儒教的精神が色濃いようだ。第2条には「篤く三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり。」と仏教での精神的統治を目指している。607年、隋に使いを送り、対等の国交を求めている。

 この時期は、天皇の後継問題で、血なまぐさい事件が多く起こるが、蘇我氏が専横してきた。緊張する対外関係をまじかに控えて、国の精神的な支柱に仏教を求めはじめたのに注目したい。以降、倭に住む人々の心に無形の神に重なり、有形の仏が存在感をもってくる。仏教伝来は精神風土に、上から国家として統治する人々に知らず知らず影響を与えていくようになると考えています。(参考図書 『古代王権の展開』吉村 武彦)

2010年2月12日金曜日

(思い込み古代史) 富田 弘氏寄稿 [前方後円墳について](下)

                                  富田 弘氏寄稿 

3 まとめ
 <形について>
前方後円墳の原型は1Cから2Cの墳丘に張り出し・陸橋を伴った墳丘墓と思います。そして3C前半に最古級の前方後円墳と見なされる勝山古墳、巻向石塚古墳、ホケノ山古墳がヤマト三輪山山麓に現れます。いづれも全長100m級で前方部での儀式の痕跡、竪穴式石室や鏡の副葬などが見られます。続いて3C後半には全長280mと最古級古墳の倍以上ある箸墓古墳が出現し、続いて全長200m以上の巨大前方後円墳が巻向を中心とした桜井市、天理市にまたがり相次いで造営されます。そして、4Cからの各地の首長墓古墳はヤマトや河内の王墓を一定の比率で縮小し、石室、副葬品、埴輪も同形式の地域最大の前方後円墳です。その一方で、円墳などその他の既存古墳も並行して造営され続けています。これらは時代の推移による自然な変遷とは到底考えられず、古墳の造営に一定の約束事が出来上がったと考えることが妥当です。特に埋葬者の単なる追悼ではなく権威の継続を重視し、前方後円墳を王墓、首長墓として特定し、そのランクに応じた大きさ、副葬品、石室の形態、葺石、埴輪などのルールができたと考えます。その時期は最初の巨大古墳である箸墓古墳造営前の3C前半から中期と思います。これは邪馬台国(ヤマト)と、張り出しや埴輪の原型を持つ吉備との邪馬台国連合の意志が強く働いていると考えます。以上から私は④説を支持します。


<邪馬台国から初期ヤマト政権・河内政権へ>
前方後円墳造営の約束事ができる3C前半から中期は邪馬台国は狗奴国との戦いの時で非常に不安定な状態だったと考えます。魏志倭人伝ではこの戦いの結果は記載していませんが、邪馬台国有利の内に和解したと推定します。根拠は狗奴国想定地の濃尾平野では前方後方墳はその後も継続しますが、この前方後方墳は発展することなく徐々に前方後円墳が主流となります。濃尾平野で最大の古墳はやはり前方後円墳です。三角縁神獣鏡の分与も同様です。卑弥呼や台与はこの不安定な状態を乗り切るため、邪馬台国の権力を支えている鬼道のシンボルであろう三角縁神獣鏡などの鏡を各地の首長へ分与し、共通の祭祀の証しとすること、さらに邪馬台国勢力圏の秩序を図るため、前方後円墳を王墓、首長墓と決め、大きさ、石室様式、副葬品などのルールも作ったと考えます。これには盟友の吉備勢力の協力があったと思います。卑弥呼の晩年の時代に始まり後をついだ台与の代にルールが各地に浸透したと考えます。その象徴が箸墓古墳だと考えます。

 そして邪馬台国の呪術的な権威から、更に強い政治権力をもった初期ヤマト政権が三輪山山麓に誕生することになります。卑弥呼、台与、それに続く数代の王の墓が箸墓古墳に始まる巻向を中心とする桜井市、天理市に見られる全長200mを超える前方後円墳と思います。

 そして、5C以降ヤマト政権は、朝鮮半島との交易を通して勢力が増大した河内を本拠とした河内政権に移っていきます。河内地域の前方後円墳は400mを超える巨大古墳となります。河内の百舌鳥や古市の巨大古墳群は、大阪湾や当時の幹線だった古道から偉容を見ることができます。葬送や儀式だけではなく、権威の象徴として「見られる古墳」へと移っていったと考えます。大林組の試算によると、全長486mの大仙陵古墳(仁徳天皇陵)の造営には、古代工法をとる場合、2000人/日の作業者で16年要するとなっています。その巨大さが読み取れます。

(思い込み古代史) 富田 弘氏寄稿 [前方後円墳について](上)

 2010.1.20、「反論邪馬台国」の富田 弘氏から「前方後円墳について」を寄稿いただきました。2回に分けて掲載いたします。             2010.2.13 中川 昌弘                               
                                     富田  弘寄稿
1 前方後円墳について
 古墳は全国で10万基以上あるといわれ、形も方墳、円墳、方墳の四隅が突出した四隅
突出墳、前方部が短い帆立貝式墳などさまざまですが、中でも前方後円墳は意味ありげな形に加え、その巨大さから大王墓や各地の首長墓となるものも多くあり、古墳の象徴といってもいいでしょう。この前方後円墳について考えてみます。

2 なぜこの形か
 諸説あるものの現在でもなぜこの形かはわかっていません。そもそも「前方後円」と方形部が前ということも慣例的にいっていることに過ぎません。江戸時代末期の学者が前方後円墳を横から見ると宮車に似ていることから、車(後円部)の引き手(前方部)を前として「前方後円」と名づけたものを今でも継承しているわけですが、これに代わる名称もないのでここでも前方後円墳として扱います。次に主な説とその補足をします。

①墳丘の張り出し部・陸橋の拡大説 
発生期の多くの墳丘墓には墳丘への墓道として張り出し部が敷設されていますが、これが発達して前方部となったというものです。張り出し部で行われていた葬送の儀式の重要さが増してきたことにより、張り出し部が拡大したという説です。同じ意味合いで周溝を伴う墳丘の溝の一部を堀り残して外と墳丘をつなぐ陸橋としたものが発達したという考えもあります。面白さはないですが学説の主流です。

②中国、朝鮮半島の古墳の移入説
だれにも浮かぶ考えですが、現段階ではこれを裏付ける発掘はなくこの説を積極的に主張する学説はありません。朝鮮半島の墳墓は石積塚が特徴でかつ埋葬位置は地下が多いようです。まず地下に埋葬してその上に石を積んでいく手法で、日本のような墳丘を造った後墳頂を浅く掘って埋葬する竪穴式石室とは根本的に異なります。高句麗の墳墓で最大のものは一辺62mの段築式石塚の太王陵古墳です。隣接の一辺30mの将軍塚古
墳とともに、近くに好太王碑が立っていることから、どちらかが広開土王陵と考えられています。高句麗の日本への影響は形態より古墳壁画だと思います。朝鮮半島南部に前方後円墳らしき古墳が見つかっていますがその様式は5~6Cの日本のものであり、埋葬者は朝鮮半島に進出した倭人か倭国に関係した韓人ではないかといわれています。
また、モンゴルにある紀元前後の匈奴の墳墓群に前方後方墳があるらしいですが、もとより日本への影響はわかりません。中国でも前方後円墳は見つかっておらず、始皇帝陵は一辺約500mの巨大な方墳です。したがって、葬送に関する思想は移入したと思いますが、現状では前方後円という形は日本独自のものと考えます。

③壺形説
 上から見ると壺に似ていることから、不老長寿の仙人の住む蓬莱山の形を模したものという説です。古代中国の神仙思想では、東の海に浮かぶ蓬莱山は壺の形をしていると想像されていることから、埋葬者の永遠の生命を願ったというものです。確かに最近の発掘で弥生時代には神仙思想が日本に伝わっていたことがわかっています。しかし当時の人々は古墳を上から見ることはできず、むしろ上からよりも側面から見た形に注目すべ
きでしょう。単純な疑問として、神仙思想の本家である中国では前方後円墳は見つかっていません。また、同じ方形の張り出し部を持つ前方後方墳はどう説明できるのでしようか。

④権力者の合意説
ヤマト(邪馬台国)の王、吉備、出雲の首長の会議により前方後円墳という形が決まったという説です。これは前方部は吉備に見られる墳丘の張り出しや各地の周溝墳の陸橋、出雲に多い四隅突出墳の突出部分を集約して、さらに古墳の要素である鏡などの副葬品、埴輪、石室なども各地の墳墓の特徴を盛り込んで前方後円墳を形造ったという考えです。
政治的に墓形が決まったとは現代的な感覚に過ぎないと思われそうですが、弥生時代には地域性のあった墳丘墓が、普遍的な前方後円墳に変わっていくという実態面からは合理的な説です。

2010年2月5日金曜日

(思い込み古代史)  12. 6世紀 継体天皇の登場

 倭の五王の一人と目される仁徳天皇から数えて10代目の武烈天皇に子供がいなかった。この王位を継いだのが6世紀の初めの継体天皇である。継体天皇は越(福井地方)の支配者として皇位継承をめざして、近畿地方に進出し、大和をうかがう形で507年、河内の樟葉で即位したと日本書紀にあります。次いで山城の筒城(京都府田辺町)、さらに弟国(長岡市)へと宮を移し、尾張の連草香の娘、目子媛を妃にして2子をもうけている。のちの安閑天皇と宣化天皇である。即位後大和王権につながる手白香皇女をめとり、正当性を得て。欽明天皇を生む。天皇の漢字号は8世紀後半に創られた。名は体を表し、従来の皇統から越の支配者に皇統が移ったことを「継体」といっている。

 512年 百済に朝鮮半島南部の任那4縣を割譲します。
 513年 百済が五経博士を派遣します。
 527年、新羅に侵略された朝鮮半島の南加羅を復興させるため、近江臣毛野を将軍とした6万人の軍勢を朝鮮南部にあったと思われる任那に派遣しょうとした。ところが、新羅が北九州に勢力をはっていた筑紫君磐井に連絡を取り、西下軍を阻止しょうとした。近江臣毛野が筑紫君磐井に共に朝鮮にむかおうと説得すると「昔は、君は同輩として大王に仕えた。それが、私に命令し朝鮮に軍をすすめよというのか。お断りする」といったのだろう、戦となった。結果は筑紫君磐井が敗北した。継体天皇は九州の不穏な動きを封じて531年薨去された。

 継体稜といわれている、今城塚古墳(高槻市)に行ったことがあります。今では公園のようになっていて、近くに埴輪工場もあり、大きな領域をしめる古墳でした。継体天皇は、古代史において、天皇の系譜が替わる節目の天皇と位置づけされると思います。

 継体天皇と大和王権につながる手白香皇女の間に生まれた欽明天皇の時代の552年 百済の聖明王が仏像を伝えました。百済が新羅とのせめぎあいの中で倭に近寄る一つのシンボルだったのでしょう。仏教はしばらく後に、国の統治に役立たせようとする動きとなっていきます。

 新たなパワー仏教を保護しょうとする渡来系の蘇我氏と仏教を排斥しょうとする物部氏が主導権を握ろうとして、新たな抗争が起こっていきます。

 次回は、古墳時代の総括として、富田 弘氏より「古墳について」の資料を拝受していますので2回ほどにわけて掲載予定です。(参考図書 「古代王権の展開」吉村 武彦 「日本の歴史(上)」文芸春秋)

2010年1月31日日曜日

(思い込み古代史)11. 5世紀、ヤマトから大阪湾沿岸南地区へ


倭の五王
 5世紀の初頭から終わりにかけて倭国の5王(讃・珍・済・興・武)が中国の南宋に朝貢したという記録が「宋書」「南史」にある。

 倭国王珍が使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王に、

 また倭国王武が使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王と

 申請している。

 珍は安東将軍倭国王に、

 武は百済を除く倭国王倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓安東大将軍使持節都督に任ぜられている。

 前項での高句麗広開土王に敗退した倭が南宗の後ろ盾をもらって高句麗に対しようとして、南朝鮮を加えた覇者であることを宋に訴えたと思われる。秦韓・慕韓は存在せず、過去の名称であった。何故に支配下に過去の国名を加えたのか、故江上波夫氏によれば、もっと古い時代には馬韓・弁韓・辰韓の三韓があったが、自らの発祥の弁韓は記さずに自国の領域を過去にさかのぼって、南朝鮮全体を倭であると宋に認めさせようとしたのではないか、とのことであった。いずれにしても。。。

 有力な勢力が朝鮮から日本に渡り、南朝鮮、日本の支配権を主張したというのは、古代史素人ファンとしては、一つの魅力的な説に思えます。倭の王達の活動する主拠点はヤマトから海外に対することができ易い大阪湾沿岸の南地区に移っていた。

 誤解をさけるため、付け加えますが、南宋への申請通り、倭が南朝鮮を支配していたとは、朝鮮史からみても事実ではありません。ただ、過去の一時期、南朝鮮へ勢力をのばしたことはあったでしょう。そのことを捉えて、認められてもともと、と申請したのではないでしょうか。武のおりに百済を除く、南朝鮮への監督責任のような立場を南宋は認めていますが、高句麗に対抗するためと思います。

大山古墳(伝仁徳天皇陵)
 巨大な前方後円墳が堺市百舌に築かれている。墳丘長486メートル、「延喜式」によれば8町四方とのことで、現在の比定地が仁徳天皇の御陵となっている。5世紀につくられたが、ある試算で一日2000人動員して16年8ケ月かかるとのことである。このような動員を可能とする権力が大阪湾沿岸南地区に移ったと考えられる。   
 
 この国のバイタリティーを感じます。話は飛躍しますが、戦艦大和は艦の巾はパナマ運河の35メートルをこえ世界一、この国の実力はそれほどでもないに、とっぴも無い大きいことをする一つの例証といえると思います。ヤマト、難波にかけて巨大古墳が作られますが、その最たるものが大仙稜古墳で、かって、まわりを歩きましたが、
その広さにたまげました。この5世紀、百舌鳥には、写真南に伝履中天皇陵と真ん中に伝仁徳天皇稜が、北に伝反正天皇陵が見える。朝鮮と列島の諸豪族に意識して、大阪湾からも近辺の陸路からも巨大化をみせつける意識をもっていたと思います。 


須恵器
 土器は平地に窪みを作り野焼きし600-700度で焼き日用食器に利用される土師器がありましたが、この時期、先進地帯の朝鮮からは、硬度の高い、須恵器の技術がもたらされました。須恵器はロクロを使い器を作り、登り窯で1100-1200度に焼成し、主に祭祀用としてまた古墳副葬品として利用されました。大阪府の千里丘陵では100基以上確認されている。

 先進技術は中国、朝鮮半島から取り入れて内製化しつつ、ものによっては巨大化するルーツはこの時代にあるようです。(下図は大阪歴史博物館「古代難波の序章」より)(以上 参考図書 「騎馬民族国家」江上波夫 「千里丘陵の須恵器」関西大学博物館実習展資料 「図解よくわかる日本史」人物往来社「エッセーで読む日本史(上)」文芸春秋他)

2010年1月24日日曜日

(思い込み古代史)[閑話休題]一神教と多神教の世界観


 一神教の世界(ユダヤ・キリスト・イスラム教)を考えることで、八百万の神の住まわれる日本のことに思いを馳せたいと思います。

 私事ですが、中学生のころ、カナン英語学院に学んだ時期がありました。先生は牧師さんで、イエス・キリストの奇跡の数々を折々、教えていただきましたが、当初は信じることが出来ませんでしたが、新約聖書を読みますと、今は、あったことなのかと思っています。

 カナンという地名にひっかかりを覚えていましたが、一神教の世界をかいま見ることでカナンの意味がわかりました。紀元前の古い時代に、ユダヤの民が中東のウルから今のパレスチナ地方にあたるカナンに移住してきます。その後、カナンが飢饉となり、ユダヤの民はエジプトに移住します。しかし、エジプトのファラオから厳しい差別を受けて、アダムとイブにつながるアブラハムの子孫のモーゼが神からの啓示を受けて、シナイ山に神と十戒の契約をしてカナンの地に戻ることとなります。BC10世紀前後のことでした。
1.唯一神
2.偶像崇拝せず
3.主の名をみだりにとなえぬこと
4.安息日を覚え、これを聖とせよ
5父母を敬え
6殺す勿れ
7姦淫する勿れ
8.盗む勿れ
9.隣人に関して偽証せず
10.隣人の家を欲しがらない
ユダヤの民のみが神(ヤハウェ)に選ばれ、数々の預言者が続き、神の言葉が旧約聖書として残されています。

 紀元前後にイエス・キリストが生まれ、30歳の頃、ヨハネの指導の元に洗礼を受け、イエスは天空から鳩が降ってくる姿を見て、神の啓示を受け、「悔い改めよ、神の国にいかん」と宣教、布教されます。このことはイエスの弟子のペテロとパウロにつかえたマルコが64-65年にイエスの生涯を書きます。それがマルコ福音書です。マルコの福音書を下敷きにルカ・マタイ・ヨハネ福音書がイエスの誕生も含めて書かれました。イエスに何が大事かと問うと、①主を唯一神と信ぜよ。②あなたの隣人を愛せよ。でした。4つの福音書として新約聖書が編纂され、ユダヤ人以外の世界の人々に発信されます。現在信者は20.4億人です。

 ムハンマドは570年頃メッカに生まれた。神の啓示を受けたのは40歳ころの610年らしい。神の言葉を記したコーランはユダヤ教、キリスト教の預言者に降された経典の再説だが、独創性をいささかも疑えない。その信条は6信5行といわれる。
(6信)
1.アラー以外に神はなし。
2.ムスリムはアッラーから全ての啓典を信じ、コーランが最後の経典であることを信じる。
3.ムスリムはアッラーからの全ての預言者を認める。預言者の中にアブラハム、モーゼ、イエス、ムハンマドが含まれる。
4.ムスリムは天使たちがアッラーの命令の元で種種の働きをおこなうことを信じる。
5.万物は皆いつか「終末」を迎えるが、神が下した「来世」(最後の審判)を信ずること。
6,現在も未来も、「運命」は全て神によって定められていると信ずること。

(5行)
1.念信「アッラーの他、神なし。ムハンマドは使徒なり。」
2.礼拝「1日5回メッカの方向に礼拝しなければならない。」
3.喜捨「貧者に対する施し(ムスリム務め)
4.断食「9月ラマダーンの日、夜明けから日没まで飲食禁じられる。」
5.巡礼「1生に1度、可能な限りメッカ巡礼する。」
現在、イスラム教は7.5億人いる。2つの宗派が代表的だが、シーア派は原理主義といわれる。
(スンナ派)アッラーの他に神なし、ムハンマドはアッラーの使徒なり。
(シーア派) アッラーの他に神なし、そして、アリーはワリー(選ばれた人)なり、と付け加える。

[共通項は一神教]教義が生まれたパレスチナやアラビア半島は人種が通過し、特にパレスチナはユダヤ人はじめ多様な人種により興亡を繰り返し、紀元前後からは、ローマ人、ペルシャ人、アラブ人、蒙古人、トルコ人が覇を競って占有した。アラビア半島を含めて砂漠が多く、ただ一神を信じざるを得ない過酷な環境でなかったのではないか。そして、信仰において神との契約をする。

 反面、この地の人々はIBMといわれる、I インシャ・アラー If God will   B ブクラ 「明日」 M マーレーシュ It hasn't 「気にするな」 「しょうがない」 過酷な気象条件と人類の攻防の歴史が(神以外に信ずることはできない)(それも一神だ)という宗教を生んだと思います。でも どうしょうもなければ、IBMという逃げ手を作っておこう、ということではないのだろうか。

 わが日本はどうか。山の神有り、海の神(竜神)有り、地の神あり(集落の東西南北を守る結界に神あり)、天の神有り、仏さんあり、お不動さんあり、お稲荷さんあり、言霊(ことばに霊)有り、・・・・海有り、山有り、四季ありの自然のやわらかい(時には地震・台風で牙をむくが)環境が多神教を生んでいるのではないだろうか。一神教は妥協を許さないが故に論理性を生み、多神教は多くを許すが故に、あいまい、悪く言えばいいかげん、すぐ過去を忘れ水に流したがる非論理性(論理を追求しない、まぁまぁその辺にしとこと・・・徹底さに欠ける。)の根幹をもつ。

 「万葉集」に歌掛けのことがでてきます。春と秋、収穫を祈り、実りを感謝するお祭りで、男女が山で交歓することをこの日ばかりは神のお許しをいただきますよ、と高橋虫麻呂の歌にあります。「(前略)この山を うしわく神の 昔より 禁(いな)めぬ行事(わざ)ぞ 今日のみは めぐしもな見そ 事を咎むな」

 このようなことは、ユダヤ教の「姦淫するなかれ」の世界では考えられないことでしょう。

 どちらが優れ、どちらが劣るということではない。違いがあるということを知り、どちらも、違いに異を唱えず、それぞれを信ずる人を理解することが大事だと思います。あなたはですって? 神さんも、仏さんも信じています。写真はHPよりパレスチナの地図を拝借しました。黒いところが地中海、砂っぽいところが砂漠です。(参考図書 「古代オリエントの物語」小山茂樹 他)

2010年1月16日土曜日

(思い込み古代史) 10.広開土王碑


 4世紀末から5世紀はじめの倭の状況を高句麗の「広開土王碑」から眺めてみましょう。

 広開土王碑は中国吉林省集安市にある高さが6.39メートルの石碑です。395年-410年までの高句麗の広開土王の顕彰をした碑です。朝鮮の研究者より一部碑文が改ざんされている可能性を指摘する方々がいて、解読に慎重を要します。「必携古代史ハンドブック」(新人物往来社)より抜粋紹介します。倭の南朝鮮進出と関連ある中心的な碑文は396年「百残・新羅、旧是属民、由来、朝貢。而倭以辛卯年来渡□破百残□□新羅、以為臣民。」これを解釈すると、当初は百済、新羅は高句麗の属民であった。ところが、倭が(391年)百済を破り新羅を□□し、臣民と為した。となると思います。以下に396年広開土王は百済新羅の城を攻めると続きます。また倭は己亥年の9年(399年)百済が倭と通じた。新羅は倭人が国境に満ち城地を攻め人民を捕らえ困ってると高句麗広開土王に訴えます。10年の庚子(400年)、歩兵5万を派遣して新羅を救済、倭賊を退散させると。14年(404年)の甲辰、倭、帯方に侵入したが、倭寇を潰敗させたとあります。

 16世紀末の豊臣秀吉の朝鮮侵略と同じようであったようですが、新羅・百済と手を組んでいたところが違っていたようです。

 4世紀終りから5世紀はじめにかけて、倭も確乎とした国の形態はなされていない豪族の連合の時代に海を越え、朝鮮に進出していたことが広開土王碑に信じられない歴史をのこしています。この「武」の源は、縄文時代の熊と戦ったナラ林の東から北のものか、照葉樹林の湿地帯にもたらされた稲作を取り入れた部族間抗争をせめぎきった弥生時代の遺産でしょうか。・・・・はたまたその両者の融合したるところにあったのでしょうか。いずれにしろ、海の境界を超えて進むのは、私にはつらい遺伝子だと思っています。(参考図書 「必携古代史ハンドブック」新人物往来社)

2010年1月9日土曜日

(思い込み古代史) 9. 古墳の展開(闘争・談合・連合・進出の4世紀)

 富田 弘氏よりの[反論]「邪馬台国について」を読ませていただくと、年季の入った観測で説得力あります。30年以上前に、上司の邪馬台国九州説に触れて、当時数冊の本を読みました。今、ゆったりした時間の中で、関連書物を精読しています。その断片や新聞情報をつなぎ合わせて、「古代史」思い込みロジストなりの見解を以下に続けることに致します。(10.1.9 中川 昌弘)

 3世紀から6世紀までを古墳時代といわれますが、ヤマトを中心に前方後円墳が、時の権力者の象徴として造られていきます。「魏志倭人伝」によると邪馬台国の卑弥呼が亡くなって、3世紀半ば以降、邪馬台国は乱れ抗争しますが、壱与がたって、おさまります。その後、卑弥呼の後継勢力、またはこれを倒した勢力が力をつけていきます。このことは、前が方形(むしろばち型)で後ろが円形墳の日本特有の前方後円墳が4世紀にかけて次第に大型化していることで実証されます。田中 琢著「日本の歴史「倭人争乱」」からまずは解説致しましょう。
田中 琢氏によると古墳のあり方など次のようにが変わってきます。

(1)古墳のあり方

 当初は、円墳に遺体を納め、つづく前方のバチ型のところで、その地域の族長の権力を引き続き子孫に伝承される旨の祭祀を、飲食を共にしておこなった。古墳という斎場ではなかったか。それが、次第に大型化することとあわせて祭祀が忘れられ、方形部分にも棺がおさめられ、族の力をアピールする場モニュメントに変わっていった。限定された場所では家来、親族の陪塚も周辺に展開されるところ(佐紀盾列、古市、百舌鳥)があった。冒頭の大橋美久二さんによる埴輪復元想像図によって、往時の古墳の意味を考えたいと思います。

(2)地域勢力の伸張が古墳によって読み取れる。




















 ベースになるのは巻向地区をはじめとする山辺の道近辺に存在する古墳群に埋葬される邪馬台国を継承する有力勢力であるが、魏王からいただいた銅鏡=三角縁神獣鏡=を他に勢力をはる族長に配布していく。例えば、東西北をやくする山城の族長に配布し、椿井大塚山古墳(中国鏡36面中、三角縁神獣鏡32面発掘)として納まっているの現在も確認できる。ところが、ある時期から、古墳が作られなくなる。これは山城の族長を山辺の族長が滅ぼしたと想像できる。このように古墳群の推移がヤマトの族長の勢力の伸張する、姿として読み取ることが出来る。田中 琢氏によれば、ヤマト族長の勢力は北に伸び、古墳は平城宮北の地域に多く作られることとなる。その後、5世紀には河内の古市、百舌に古墳の場所をうつしていく。図をごらんいただきたい。三角縁神獣鏡の配布は、吉備にも、出雲にも、関東地区にも、はたまた九州にも、配布されたであろう。和製の三角縁神獣鏡もつくられた。10.1.8の朝刊に桜井茶臼山古墳(全長200メートル 3-4世紀はじめ)に銅鏡81枚が埋葬されていたことが報道された。三角縁神獣鏡は26面とのことであった。240年(魏 正始元年)記名の三角縁神獣鏡が含まれ、卑弥呼がもらった年とされる、239,240の景初、正始の年号のある同鏡は国内8ケ所(九州1、中国・山陰2、近畿4、関東1)となった。(年号の無い鏡がほとんどである。)

 また、次項でとりあげる、高句麗の広開土王の碑によると4世紀末には倭は百済と組み、新羅にも進出しているさまが記録されている。このことから推すと、4世紀中葉以降には、ヤマトを軸として、日本の西半分を中心とした、部族連合が出来ており、朝鮮から、鉄器を輸入して、武装を固めて、朝鮮に武力進出していたことになる。もっとも、この時代は朝鮮南部も含めて、クニとかがはっきりしないファジーな部族連合ができていたと想像できる。

 日本固有とされている前方後円墳と朝鮮のかかわりを少しみておきましょう。
 高句麗の、現在の北朝鮮と中国の国境にある雲坪里古墳群には、紀元前から紀元後の長い時期に、前方後円墳と四隅突出型古墳が多数点在している。(「騎馬民族の道はるか」=森 浩一/NHK取材班=より)
 百済南西端のヨンサングンの川沿いに数基の前方後円墳が1990年代に発掘されており、紀元後5-6世紀の倭人のものと推察され(百済に採用された武人管理者の古墳か)、調査が続けられ公式発表はいまだされていない。(NHKTV日本と朝鮮半島2000年より)
 (仮説2)高句麗から、日本海を越えて、出雲や北陸に人々がわたってきた。あるいは、仮説1のように南下して九州へわたり、東征して、その子孫たちが、ヤマトの族長となった。

 卑弥呼が没したのが250年くらいだから、それから数年乱れ、壱与がたち、そのヤマトの後継勢力が前方後円墳に軌跡を残しながら、僅か100数十年強で、西日本を固めたと想像され、(ひよっとすれば中部・関東もおさえ)朝鮮へも手を伸ばす勢力となっていた。この頃の倭人の闘争・談合・連合は、朝鮮に学び、逆に朝鮮進出と、1500年後の明治維新の数十年を思わせる進展であった。1600-1650年前ころの倭人は既に、貪欲な学びと進取のわざの取入と巨大化とそして「武」(他国に対して誇らしいことではないが、)を持ちあわせしていたようである。

 図は田中 琢著「日本の歴史「倭人争乱」」より拝借しました。(参考図書 田中 琢著「日本の歴史「倭人争乱」」=田中氏の緻密な労作に敬意を表します。=  「騎馬民族の道はるか」森 浩一/NHK取材班 NHKTV 日本と朝鮮半島の2000年)

2010年1月1日金曜日

(思い込み古代史) [反論] 邪馬台国について その3  富田 弘氏

 新年明けましておめでとうございます。

 富田 弘氏の[反論]邪馬台国について その3 以下をもって 一旦、掲載を終了します。その後の古代史思い込み人中川 昌弘の連載に、またまた 反論いただけるかもしれません。一人よがりを排し、対立した意見に謙虚に思い込みの修正をするところに"進歩"や"深化"があると思います。今年も勉強を続けてまいります。よろしくお願い申し上げます。('10.1.1 中川 昌弘) 

3 東遷説
 ①九州の国がヤマトに移動し邪馬台国をあるいは②4C末に九州にあった邪馬台国がヤマトの既存の勢力(初期ヤマト政権)を倒し新ヤマト政権を建てたという筋書です。ベースには神武東遷説や応神東遷説があるわけですが、考古学的にはまったく裏づけがありません。神武東遷説は虚構で応神東遷説は仮説レベルです。なぜ東遷する必要があるのか、なぜ行き着く先はヤマトなのか。もっと先に行ってもいいのではないか。そして考古学的な裏づけはなくとも、九州に本拠を残してヤマトに進出したということなら勢力拡大としてありうるが、なぜ本拠を捨てたのでしょう。どのようにして一族や国の集団を引き連れながら移動したのでしょうか。途中には多くの国があったはずで併合したのでしようか。そうでなければどう乗り越えたのでしょうか。

 ①の場合邪馬台国を建てたヤマトは無人の荒野ではありません。集団移住するような魅力的な土地であれば、土地も肥え当時から人口も多かったはずです。仮に鉄製武器を持っていたとしても当時の戦いは石製の武具が中心です。簡単に征服されたとは思えません。

 ②の場合倭国はすでに鉄の時代です。考古学的にも九州の優位性は見られません。騎馬民族が朝鮮半島を南下し九州に建国(邪馬台国あるいは狗奴国など)、後に東遷しヤマトに新政権を建てたという騎馬民族征服説もありえません。大平原ならともかく、海を渡って、山地、樹林、河川で分断されている日本の国土を騎馬で征服できるしょうか。騎馬の風習を持った多くの渡来人が長年に渡り日本に来たことと混同してはいけません。以上が明確にならない限り東遷説は成り立ちません。

4 まとめ
 以上、総合的に考えるとやはり畿内説が合理的です。道程を恣意的に変えた倭人伝
も、南を東に補修することでスムーズにつながります。

5 その他
本質的な邪馬台国論は単なる邪馬台国の場所探しだけではなく、日本の国としての誕生を考えることで、この視点から邪馬台国のその後も必要です。九州説への注文とともに考えを述べます。

■九州説は候補地を絞るべき
 畿内説はヤマト三輪山山麓あたりで、纏向遺跡がその中心地として一致しています。
九州説は様々で主な候補地だけでも下記です。
       筑後山門郡    甘木    大隈薩摩 
       肥後山門郷    宇佐    北九州
       熊襲の地     島原    九州のどこか
 場所もばらばらで当然論拠も別々です。九州のどこかに絞らないと、畿内説・九州説対比といっても、畿内対九州A、畿内対九州B・・・となってしまいます。特に九州のどこかは何とかしてほしい。

■邪馬台国その後   
 3C末から4C初頭には三輪山山麓に初期ヤマト政権が生まれたのは事実です。私は卑弥呼、台与と呪術的な女王が続いた後、数代の支配者交代はあったかもしれませんが、3C末から4C初頭には邪馬台国内の有力な一族から初期ヤマト政権の支配者が誕生したと考えます。今までの変遷を三輪山信仰に落とし込み、より強い権力を持ったこの支配者こそ初代の天皇といわれる崇神天皇(ハツクニシラススメラミコト)と考えます。この系列の天皇がいわゆる三輪王権として数代続いた後、4C末から5Cに河内の巨大古墳を築いた河内に基盤をおいた応神天皇を初とする河内政権へとつながると考えています。九州説論者も東遷説以外の九州の邪馬台国のその後を持ってほしいと思います。たとえば本居宣長のように、邪馬台国とヤマトの名を騙った女酋長の国が、後にヤマトに滅ぼされたでもいいと思います。(終)