2011年12月6日火曜日

[Let’s Watch  Movies]「家族の庭」マイク・リー監督(2010年イギリス映画)

映画は、定年まじかの主人公トム(地質学者)とジェリー(心理カウンセラー)が平和な家庭での日常や、市民菜園での土いじりと作物のできる喜びを春夏秋冬のさままな出来事を演じながら、主人公にかかわる1人で生活するジェリーの同僚のメアリーや、孤独な友や、トムの兄や1人息子がからむ、イギリスでの中流の普通の人生を、切り取ってみせてくれる映画です。

 夫婦は幸せをどのようにしてつむぐのか、自然な形で見せてくれるし、一人で生きるのがどんなにさびしいことかも、主人公を取り巻く周りの人々が演じてくれる。

 この映画を観て、「人」という字が人が人を互いに支えあうことにあるのだと、あらためて考えさせてc@hくれました。

 またこの映画の主人公たちのように健全な夫婦になるために、何が自分にかけているのかも、考えさせてくれる映画でもありました。

 出演者はシチュエーションを与えられ、会話を紡ぎながら、脚本づくりがなされるというマイク・リー監督の独特の手法が、美しい映画を作り出しています。

 以上は私の観た感想にすぎず、観る人がどのようにみるか、それぞれの人に、その解釈はゆだねられています。テアトル梅田で公開中。(☆☆☆☆)(2011.12.6中川 昌弘)

2011年11月30日水曜日

[エッセー]「近くて近い国、韓国を旅して」

過日、韓国ソウルへ団体旅行しました。近くて近い国、韓国の一端を知ることができました。

 ソウルの繁華街“明洞(ミョンドン)”を歩けば、大阪の繁華街を歩いているのと錯覚しましたし、南大門(ナンデモン)周辺を歩けば、大阪の鶴橋駅前の商店街を巨大にしたように感じましたし、東大門(トンデモン)の繊維品商店街では、大阪本町の繊維街を巨大にしたようだと思いました。
むしろ、日本よりパワフルなエネルギーが溢れているように思いました。

 ここは、親戚の国だと親近感をいだきました。

TVではKARAが、NHKTV「イ・サン」BS歴史ドラマ「トンイ」が親近感を助長しているようです。BSプレミアムでトンイ役の女優k笑顔をみて、驚きと喜びを感じました。

 残念な過去もありましたが、2000年前頃以降、多くの人々が半島から列島へ技術をもって移住してきたはずですから、ルーツを共有するところがあるようです。

 蓮池薫さん著「半島へふたたび」によれば、ソウルには、巨大な書店もあるとのことですし、TVによれば静かな町並みも、グルメなお店もあるようですので、自分達で地下鉄に乗れるように最低限の言葉を覚えて(妻は私のことをソンセンニン=先生=と呼んでいます。)「韓国へふたたび」訪れることを楽しみとしています。「近くて近い国」が名実ともに友好関係と絆が深まることを願っています。(2011.11.30 中川 昌弘)

2011年11月13日日曜日

[エッセー]「千里の道」

この4日間、妻と団体旅行として台北周辺旅行をしました。
台湾は3度目の、訪問でした。

① 食は台湾にあり ツアーで用意された店へ行きましたが、全てといってよいほど、海鮮料理をむ中心としておいしかったです。(台湾人は食通ですね。外食多いようです。)
② 故宮博物館はやはり逸品をおいて素晴らしい。 ただし、中国・日本の修学旅行生がきていてごった返していた。喧騒の中、有難い仏様に手を合わしました。(その他、総統府の衛兵交代式、思い出のつまった龍山寺、十分、九分、淡水・・・、)
③ 人との出会いを楽しんだ。 名前もわからぬが、数日すると何とはなしには解る。ふとした偶然の出会いが、楽しかった。

 人生を極めるに「万里の道、万巻の書」といわれる。ようやく千里の道、千巻の書といったところでしょうか。次なる非日常を求めて、日頃身近に、何くれとなく世話になる妻と旅に出たいと思っている。(2011.11.12 中川 昌弘)

2011年11月3日木曜日

[エッセー]関西大学ミュージアム講座「吹田の文化遺産」を受講して

 2011年10月3回シリーズで関西大学大阪都市遺産研究センターの諸先生3人の方から吹田の文化遺産―歴史・建物・祭り―をお聞きした。次のように、聞き取り間違いや独断と偏見もあるやもしれませんが、参考情報として下されば幸いです。

① 歴史 実に明快な4区分はつぎのとり。
(A)聖武天皇の後期難波の宮の建立の際、都造営プロジェクトの一環として行基による治水、垂水の布施や(医療・救援施設)が造られたこと。

(B)中世に下り、三国川が整備され、京都とむすばれ京都貴族のウォーターフロントリゾートとなったこと。

(C)江戸時代になると、京都・大阪の中間地帯として川を利用した交通の要衝となったこと。特産品として、小粒のすいたくわいが朝廷にも献上されたこと。

(D)近代にはいり、鉄道が通り貨物車仕分け操作上として日本でも有数の規模て、吹田の良水ではビール工場が出来たこと。この2つが吹田の発展を支えた。後は千里ニュータウンと万博の開催で名実ともに吹田が近代都市となった。

② 建物 明治に入ってドイツの工場を模しれんが作りのビール工場たことができたこと。大阪のベットタウンとして私鉄が千里山まで開通し、往路は人々を大阪へ、昼間の車両の有効利用を考えて、関大が大阪市内から吹田に移動してきたこと。戦後は、千里山に公団による日本発トイレ・風呂付の集合住宅ができたこと。すでに50年たてかえが計画されている。

③ 祭り 都内の主だった神社の祭りが調査されている。伊勢神宮をキーとして、江坂神社・泉殿宮・吉部神社でそれぞれ工夫を凝らした祭りが継続されている。

以上は、小学生むけに副読本として学校に配布され各図書館にもDVDCDとして保存されている。2011年1月15日NPO SELFが 「自然と環境を考えると」としてシンポジゥムがメイシアターで行われ、市民文化部の一員として参加したが、SELFとして世に問うほど、「自然と環境」の研究に成熟しておらず、東北大震災でその情緒的営みも、あっけなくふっとんでしまったと、先輩諸兄を差し置いて自戒している。

 本講座は、さすが大学の専門研究員が足と知恵で練りこまれたてつくらたもので十分、次代に納得できるものをあたえてくれたと思う。
(2011.11.3 中川 昌弘)

2011年10月25日火曜日

[エッセー]関西大学講座「アジアの経済・社会と日本」を受講して

2011年9~10月4回シリーズで関西大学経済学部教授・准教授の方々による「アジアの経済・社会と日本」を受講しましたので次のように覚え書きとしました。聞き取り間違いもあるやもしれませんが、参考情報として下されば幸いです。

① ベトナムの縫製業の調査をされたお話として、外資企業が47%をしめ、日系企業のパートナーは品質にうるさく生産面で鍛えられているが、欧米の数でこなす品質に甘く育てられたところは、今日に至って、他産業と労働力獲得競争で困っている。縫製ビジネス100として5程度が加工費としてベトナムにおち、95は素材メーカーや流通・発注元におちる。最近は中国の動向も変化ある模様で、人件費増から、外資系は生産先として政情安定化のきざしあるミャンマー等が検討されはじめているとのこと。

② 中国の状況について ・日本各地で過疎化が進む中、上海近辺では日本人が10-15万人くらいいる ・大卒4-500万人毎年卒業するが、約100万人就職出来ず(日本の場合は毎年大卒の2-30%留年している。)GDP8%成長しないと雇用維持できず・農産戸籍から都市戸籍へ編入できない(学校等インフラ追いつかないため)低賃金労働力は農村の出稼ぎ労働にたよっているが、じりじり賃金があがっている ・土地は国家のもの、借地権のみあり(道路を簡単に造れ、多車線として都市間を結ぶことができる)・社会保障制度未整備・未冨先老 先富論の見直し(豊かにならない間に老いていく)・鉄鋼生産世界の40% ・自動車生産 世界一の1500万台/年(日本500万台弱)但し上位10社中7社まで外資系 ・2007年中国企業ベスト50社中民営・外資各1社(48社国営) ・外資系50万社(内3.5万社日本出資)

③ この20年日本の来た道 ・グローバル化は先進国の事情でおこなってきた ・お金は儲かるところへ集まってくる ・比喩的にいえば困った人を陸から助けていた時代より、国家が海となりどっぷり浸かって人を助けようとしている(国が借金を繰り返し景気浮揚しょうとしてきた。GDP2倍の国債の発行残となっている) ・アメリカ・EUにしても、日本のきた道を世界が歩み始めた ・システムを変えねばなラない時期となっている

④ アセアン+3(中国、韓国、日本)13国で東アジア経済圏を2015年までに作ろうという、中国・韓国の動きと、オーストラリア・ニュージーランドを加えていこうとする日本と意見が分かれている。TPPは日本の路線を環太平洋とするか、しないかの分かれ目と考えてよい。鳩山・小沢ラインが東アジア共同体構想で菅・野田ラインが環太平洋へむかつているのではないか。

深刻な国内事情をかかえて経済運営を迫られているアジアの中の日本、どこにいくのだろうか。答えは見えてこない。日本丸の進路にさらに波風が高くなるようだ。
(2011.10.25 中川 昌弘)

2011年10月10日月曜日

[エッセー]ドイツをかいまみて思うこと

 この3ケ月ほど、ドイツを勉強しました。

 ドイツは約200年前まで300の領邦国家等に分かれ、有力な7人程度の選定候で多数決で神聖ローマ帝国皇帝を選び、分権割拠しナていましたが、ナポレオンの進攻により、39の国に整理され、プロイセンのビスマルク等の活躍で140年前にドイツ帝国となりドイツが統一されました。その後、2つの世界大戦の引き金を引き、62年前に東・西ドイツとなり、21年前に統一ドイツとなりました。
第2次大戦以降、フランスと協力し、EU設立の中核として、国土35万km2(EU中4位)人口8209万人(1999年)GDP2兆ユーロ(EU15の25%)EU予算拠出(同19.6% 参考仏=17.6%英=11.9%ギリシャ=2%)また環境先進国として2002年に2022年には原発(現17基稼動)を0に、再生可能エネルギー35%(現在17%)にと打ち出しています。

① 政治面 明治時代、大久保利通は遣欧使節団を派遣した際、ドイツのビスマルクの官僚制を学ぶべきものとして、今日の日本の国の元となる官僚制を築きました。明治以降の富国強兵策を推進した日本はドイツがこの意味で発展の起因となっております。


官僚制のもとはドイツにあります。(官僚制をチェックして行き過ぎを是正する装置がなく、官僚制の問題が今日に至っています。)

② 芸術面 音楽はバロック時代(1600-1750年)バッハ、古典派時代(1750-1900年)オーストリアのハイドン・モーツアルト、ベートーベン、楽劇のワーグナー(ザクセン王フリードリッヒ2世が17年かけてノイシュバンシュタイン城を創りワーグナーの楽劇の壁画でかざり、バイロイトには歌劇場をつくり今日もワーグナーが年一回上演され、数年間予約でうまっています。フリードリッヒ2世は精神病で後に退位)他が活躍しました。これは当時39~300もの領国に分かれ、寺院もふくめて、有力な楽団を擁していた社会背景もあったでしょう。今日、CDとして手軽に楽しめているのは当時の作曲者の苦労を思うと、あり難いことです。詩ではH・ハイネ(ローレライの作詞でも有名)、H・ヘッセが生と死をテーマとし、小説ではトーマス・マン(療養生活者の真剣に生死愛を探求する「魔の山」)、ゲーテ(悪魔に精神を売ってギリシャ神話のヘレンにも恋する「ファウスト」60年にわたり創作した)が真面目に人生と向き合うことを語っています。(尚、ドイツの領域は変転して現在に至っていますが、オーストリアについては中世はドイツの領域でした)

芸術遺産、とくにクラシック音楽が世界の人々を楽しませています。

③ ドイツと日本 以前から知っていたことですが、ベルツ他が明治時代初めに来日し、後の東大の医学部となる先駆をなした医学での貢献があった、カルテにドイツ語習慣があるのはそのためでしょうか。草津温泉もドイツのバーデンバーデンの温泉を日本にもと、ベルツが開発に関与したと記憶しています。1940年のヒトラーと松岡外相が握手した日独伊三国同盟は、にがい過去でした。ともに壊滅的な敗北におわりましたが、ともに勤勉さと真面目さと清潔さと地道な努力で立ち直りました。
 
どこか似ていると感じるドイツと日本ですが、ともに正念場の時を迎えているようです。

 現在債務過多をかかえるギリシャ他の国をかかえるEUを、当初の理想に向けてドイツに頑張ってほしいと思います。また東アジアでは、興隆するGDP1位の中国の背を見ながら、震災復興と超円高で苦しむわが国は、膨大な国債発行残高をかかえ産業空洞化するままに進むと危うく、今後10年20年先を見据えた、財政再建プラス日本再建ビジョンが必要とされています。ドイツのことを勉強してそう思いました。(2011.10.10 中川 昌弘)

2011年9月27日火曜日

[Let’s Watch Movies]映画「ミケランジェロの暗号」を観て

 ウォルフガング・ムルンベルガー監督「ミケランジェロの暗号」(2010年オーストリア映画)は、第2次世界大戦の際、ユダヤ人画商一族カウフマン一家が、密かに保存するミケランジェロの素描画をめぐって、ナチの争奪に対する、抵抗の物語。別に読んでいた、エクトール・フランシアーノ著「ナチの絵画略奪作戦」(ヒトラー、NO2のゲーリングは名画をこよなく好んでいた。ヒトラーはユダヤ人画商からアーリア人のかいた名画を収奪して、オーストリアのリンツに美術館を建ているつもりだった。現在も略奪したナチの絵画が、モドリ手を失った名画がルーブル・エルミタージュ他に保存され、一般の閲覧に供されている。)も背景を知る上で有益だった。

 この作品の見所を3点まとめてみました。

① 戦前(不穏なユダヤ人に対する風当たり)戦中(一挙に、ユダヤ人が追い詰められて
収容所へ移送される危機が生まれる)戦後(アメリカ軍が進駐する)と画商をとりまく世界が変転していく。

② 主題は、ナチスがムッソリーニに協力関係を強めるため、カウフマン一家のもつ、ミケランジェロのデッサン画を獲得して、提供し有利に同盟関係を展開しょうとすること。そこのところがアーリア系の一家の使用人が、からみ、カウフマンの1人息子との熾烈な知恵を尽くした対決が面白い。

③ ユダヤ人をものともしない人種観や、ナチの軍部にあることなかれ主義や独裁者の「ミケランジェロ獲得」の絶対命令の中で性切羽詰った軍部の対応等々、手に汗握る展開がある。戦後のあっけらかんとした変転も、「戦争は何だったのか」と思わせてくれる。

 娯楽大作でした。シネリーブル梅田で公開中です。(☆☆☆☆)(‘11.9.27 中川 昌弘)

2011年9月5日月曜日

[エッセー]贔屓(ひいき)


 「人生を豊かにするのに贔屓をもつことがある。」そんな主旨のことを谷沢永一「人間通」に書かれていた。

 私の場合、プロ野球は「日本ハムファイタース」、クラシック音楽は「モーツアルト」

9月4日「日本ハムファイタース」対「オリックスバッファローズ」を京セラドームに見に行った。結果は3-5で日本ハムファイタースが敗れた。最近の球場の変容に驚いた。電光表示で、バッターの経歴が出る。これを見ていると、カーンと音がして打球のいくえを見失う。TVでは、点の観戦だが、左右上下奥行きと立体感があった。シーズン最後まで残り1ケ月、楽天とオリックスの3位争いが熾烈。2位の日本ハムは、優勝目指して、首位ソフトバンクに、挑戦していく。おもしろい9-10月だ。

クラシックは。いろいろと聞く中で、「モーツアルト」。気楽なようで、深い。理屈ではない。こころが充たされる。

「「贔屓」は、自分との約束で、将来かえてもよい。人生を豊かにしてくれるなら、しばられることはない。」と谷沢永一はそのような主旨をいっておられる。だが、当分の間、これらの贔屓はかわらないだろう。(2011年9月5日 中川 昌弘)

2011年8月16日火曜日

[エッセー]韓日歴史大河ドラマ「トンイ」vs「江」楽しみ比較考

 2011年度韓日歴史大河ドラマの「トンイ」と「江」、毎週楽しませていただいています。簡単に楽しみ方を比較してみましょう、

「トンイ」(BSプレミアム毎日曜21-22時)奴婢であったトンイ(ハン・ヒョジュ)が、周囲のひきで宮廷にあがり、幾多の艱難辛苦の後、遂には王の側室となり、世継ぎを生む物語。監督は、「チャングムの誓い」「イ・サン」のイ・ビョンフン監督。「トンイ」の製作裏話をみて知ったが、脚本が女性の脚本家から毎回、週初めに到着する。キャストたちが読み合わせの後、撮影に入り、深夜から徹夜となることも。夜のシーンでは、明け方に近い深夜では?と思ったりする。

<朝鮮王朝のセット>別に作られたセットを使っているので臨場感がある。

<当時の町並み>セットでつくられており、内容により改良セットとする。

<涙、真正面に対する人と人>毎回、涙のみない回はない程、登場人物は涙を流す。人と人が向き合い、愛憎が表現される。これは韓国ドラマのすばらしい点だ。

<ストーリー>過去見た韓国歴史ドラマのいろんなエッセンスが、技巧をこらしてはまりこんでいる。例えば、漢方薬・・・組み合わせで毒にも薬にもなる・・・ひょうきんものを登場させ、見るものにほっとさせ笑わせるなど。
 
 8月14日現在、全60回の19回を終え、1/3のところにきた。はらはらさせられるとわかっても、毎回、引き込まれる。

「江」(NHKTV毎日曜20時-20:45)織田信長の妹、お市の方と浅井長政との子、3人姉妹(茶々・初・江)の江を軸として、物語が展開されている。原作・脚本は田渕久美子。
<セット>当時の城内でない雰囲気ではあるが、庭、畳の部屋、回廊と苦心のつくり。
CGで当時の城を遠景で映し、天守閣近辺に小さな鳥が飛んでいることを観る。

<涙、ストーリーとしての重視するコト>江(ごう)(上野樹里)は豊臣秀吉の命で3度、政略結婚させられる。気性の強い女性として描かれているが、運命の厳しさに時に涙する。韓国ドラマほどの涙は観ない。どちらかといえば描かれるのは歴史的コトの世界が多い。

 8月14日現在、31回済み、秀吉がなくなった。徳川の天下へどのように移行するか、゛歴史的事実はみんなが知っているところ。その中で、茶々と江と初の葛藤がみものです。

<江の関連土地紀行>韓国ドラマにはない、関連土地に親近感を覚える。

 韓日両国の歴史・民族風土より、少しづつ趣が違い、韓国はエンターティメントに仕上げ、日本はエンタメ+教育的国民的番組に仕上げようとしている。いずれにしても、週1日、楽しみを与えてくれています。関係者に感謝です。(2011年8月16日 中川 昌弘)

2011年8月6日土曜日

[本棚から]「若きウェルテルの悩み」 ゲーテ 秋山六郎兵衛訳

ゲーテ(1749-1832)ドイツの生んだ文学の巨匠。若い頃の自身の経験を踏まえての作品。

(主な登場人物)
ウェルテル ロッテに純愛をささげた青年主人公。
ロツテ 亡き母に代わり、弟や妹の面倒をみる。いいなづけのアルベルトの妻として生きるが、ウェルテルの熱情にゆれる女性。
アルベルト 慎重・堅実・実直。ウェルテルの友情をうけるが、ロッテがウェルテルに心を動かされるのをみて、心おだやかでない。

(構成)
 ウェルテルが友人にあてた書簡集として小説が構成される。

(結末)
 ウェルテルはこの世で、結実できない愛に悩み、自死を選ぶ。

 人生の中で、できれば若い頃に一度は読みたい書です。ウェルテルの心情も 一度は各人それぞれに経験したいものです。

 
 かのナポレオンも読んだようで、ナポレオンがドイツに軍を動かした際、ゲーテとあい、見た瞬間、「ウーン、人物だ」といわしめた。続いてゲーテ「ファウスト」を読んでいます。(2011.8.6 中川 昌弘)

2011年7月19日火曜日

「古代の東アジアと日本」―最近の講演会で聴く―⑦(古代日本の姿)古代天皇制成立の謎~倭国から日本国へ~

11.7.8 大阪府立図書館名誉館長 上田正昭氏 於大阪府立図書館

 上田名誉館長の講演要旨は歴史的な資料14種の抜粋でご説明され次のようなものでした。

 「天武・持統朝には(遅くとも690年以降は)、倭国から日本国となり、大王から天皇の呼称となった。その要因は2つある。一つは対外的に663年白村江の戦いに唐・新羅連合軍に百済と共に戦って敗戦したこと。二つ目は対内的に天智天皇崩御後、672年壬申の乱で天智天皇の弟、大海人皇子(おおあまのみこ)が天智天皇の子息、大友皇子に勝利し、673年、天武天皇として即位したこと。国際的にも国内的にも緊張し、体制一新が必要とされた。」

① 日本の国号について 
「新唐書」東夷伝日本の条 670年に唐に使者が日本と自称
 (前略)咸享元年(670年) 遣使賀平高麗(使をおくって高麗を平定したお祝いをのべた) 後稍習夏音(しばしば中国の音を習って) 悪倭名(倭=小さい=という名をにくんで) 更号日本 使者自言 国近日所出以為名 (使者は自ら、日が出るところに近いため 日本と自称した)

「日本紀」(日本書紀のこと)天武天皇3年(674年)の条 内では、674年倭と。
 対馬国銀産出献上に関して凡銀有倭国 初出干此時 

「古事記」神伊波礼昆古命(かんやまといわれひこのみこと)云々 「古事記」は712年成立(伝承を記録するスタンス)
「日本紀」神日本磐余彦天皇云々 「日本紀」は720年成立(国史編纂のスタンス)
「令集解」公式令 (前略)御宇日本天皇詔旨(後略)大宝元年(701年)

② 天皇号
稲荷山古墳出土鉄剣銘文に 471年と想定される時期に大王と刻印
「古事記」序に「飛鳥の清原(きよみはら)の大宮に大八洲(おおやしまぐに)御(しら)しめしし天皇の御世・・・ 

「日本紀」天智天皇8年(669年)10月の条 (前略)天皇(後略・・・藤原鎌足の大臣位授与文言)

 天武持統朝のときに、(少なくとも690年以降は)日本国、天皇の呼称がされていた。

③  大倭から大和 大倭→大養徳→大倭→大和
「続日本紀」天平9年(737年)12月の条 改大倭国(やまとのくに)為大養徳国(やまとのくに)

「続日本紀」天平19年(747年)3月の条 改大養徳国(やまとのくに)為大倭国(やまとのくに)

「令集解」田令 凡畿内置宮田・・中略・・大和。摂津各町。河内・・・後略
   757年5月11日以降には大和が使われていた。

 大和となにげなく使っていますが、歴史的に大倭から大和へ8世紀半ばより使われだした。大和は奈良の地域をさすと同時に、日本のこころの部分をさす言葉として今日にいたっています。大和とは大倭だったんだと知ると、古代史が自分のものとなりそうです。

 京大名誉教授でもある上田正昭先生は、「古事記」1300年祭が、2012年行われる際、基調講演をされるとのことでした。天皇陛下にもご進講されたとのことです。完璧な講演(資料は原典抜粋のみ、何年何月何日の記録と暗記された中からいわれる。)を聴く機会を得て、皆様にもその一端が伝われば、幸いと思います。

 シリーズとして古代史講演会受講等により今7回で終了いたします。ご愛読ありがとうございました。また、BLOGを続けますのでよろしくお願いします、(2011年7月19日 中川 昌弘)

2011年7月17日日曜日

「古代の東アジアと日本」―最近の講演会で聴く―⑥東アジアの壁画古墳と高松塚・キトラ古墳(関西大学講座)

11.7.7 関西大学文学部教授 米田 文孝氏 於関西大学

 米田教授の高松塚・キトラ古墳の講演から壁画の東洋思想の一部を次のようにご紹介します。

① 高松塚・キトラ古墳が築かれたと思われる “飛鳥時代”とは
663年白村江で唐・新羅連合軍に。百済と共に戦って敗戦し、対外的に緊張し、部族連合国家から中央集権国家へ転換していった。その一つの表れが次最終回に取り上げますが、7世紀末には国名を日本、大君を天皇と号しました。文明開化の時代で、大化の薄葬令により陵墓は大から小へ、埋葬から火葬へ転換初期(701年、道昭火葬)、隋唐から学んで、都城制度・官僚機構を整え、陰陽五行東洋思想にのっとった宮廷儀礼(元旦には、、外国の人も招き、お祝いをする。日・月四神の旗をかかげた宮廷庭の旗跡が発見されている。)も行われていた。

② 高松塚・キトラ古墳の壁画は陰陽五行説により配置装飾されている
そんな時代に成立した奈良県高市郡明日香村にある直径18メートル高さ5メートルの円墳・高松塚古墳の底部に切り石で組み合わされ長さ265.5cm巾103.5cm高さ113.4cmの石槨があり内部の四周天井に漆喰により壁画が描かれていました。
墓室の天井には星宿が配置されている。
4周をみれば次の壁画が極彩色にみられます。
北→玄武(亀と蛇による神像)
東北→女子群像
東→青龍(キリンのような龍神) 日像(3本足のヤタガラス)
南東→男子像
南→朱雀(鳥の神像)・・・あったと思われるが長年の劣化により消えている。 
南西→男子像
西→白虎(虎の神像) 月像(うさぎとかえる)
西北→女子群像

 陰陽五行とは、万物には陽と陰があり、5つの行 木・火・土・金・水 でなりたつ。方位・季節・色・・・を表す。木=東・春・青・・・、火=南・夏・赤(朱)・・、土=中央・黄、金=西・秋・黒・・、水=北・冬・白・・。4つの方位には守護神がいる。方位の4神と日月星宿に守られ被葬の貴人は鏡、太刀、宝玉を身近に置き眠られる。キトラ古墳は12支の神で守られています。朝鮮の古墳や石室壁画にも同様の画像があり、よく似ています。朝鮮との密接な交流がうかがわせます。

 7世紀-8世紀はじめ、隋唐の政治制度のよきところを取り入れ、朝鮮の人々の技術的指導を得て、日本の国が確立していきます。高松塚・キトラ古墳に葬られた貴人は、その後の日本の変容を、みまもってどう思われているでしょうか。約1300年の静寂の眠りの後、発掘等で世間に騒がれましたが、どうぞ安らかにお休み下さい。尚、高松塚古墳石槨の復元模型が関大博物館前にあります。
  
 日本の国号と天皇の呼称の時期はいつか、次回本稿最終回⑦として府立図書館講座からレポートします。(‘11.7.17 中川 昌弘)

2011年7月15日金曜日

「古代の東アジアと日本」―最近の講演会で聴く―⑤(関西大学講座)東アジアにおける仏教僧の往来と奈良・平安仏教

11.6.30 関西大学文学部教授 原田 正俊氏 於関西大学

 原田教授の講演から600年代-800年代の仏教を唐との人の往来状況を次のように学びました。

① 奈良仏教の状況 「続日本紀」天平16年10月2日の条より 道慈(670-744)三論宗の僧(「日本書紀」の中の聖徳太子などの仏教記事編纂にくわわったとされる。) 「今の日本仏教は行業法式が「不如法」唐と異なる。仏は国土を守ってくれず、人々に利益はない。
在家→出家得度→沙弥→20歳以上。三師七証(10人)あるいは5人師のもとで受戒して正式な比丘になる。比丘は250戒、比丘尼は350戒 しかし、実際は守られていず、私度僧が多かった。

② 聖武天皇(在位724-749)仏教興隆政策をとる。742年唐の鑑真(55歳)、楊州大明寺で日本僧より唐僧の派遣を招聘され、誰も手があがらないので、自身が日本に渡ることを決意した。753年、6度目に10年ごしで渡日に成功したが、5度目の際、視力を失っていた。754年受戒一任の勅を受けた。755年東大寺戒壇院完成。ここに鑑真と弟子たちによる正式受戒(具足戒)はじまる。鑑真763年遷化。

③ 最澄(766-822) 785年東大寺戒壇院で具足戒をうける。804年 遣唐使とともに入唐、円(天台)禅戒密の4種相承。南都仏教の授戒制度の形骸化を非難。622年6月4日遷化。6月11日大乗戒壇認可される。最澄の弟子たちによって、大乗戒壇での授戒がひろまった。

 奈良時代では僧は国家公務員であったが、僧の認定制度がかっちりとせず、唐の鑑真和上の来日で授戒制度を導入、その基礎が築かれ、後に唐に渡った最澄によって大乗仏教の授戒に展開され、平安時代に授戒制度がかたまった。私なりに補足すると仏教の形(全国に60余の国分寺と國分尼寺をつくり、奈良の大仏開眼)はできたが、それを運用する心(僧の授戒制度の確立で優秀な僧を世に送り出す)がてきてなかったので仏教の心をいれたといえましょう。また、最澄の弟子たちが鎌倉仏教を興していきます。もう1人の巨人、空海も唐に渡り、真言密教の導入と鎮護国家の仏教定着に大いに貢献されました。

 仏教を国家経営の柱としていた当時、鑑真和上の苦心と執念の来日は、只今考えてみても、感謝の念が一杯となる。

 高松塚古墳、キトラ古墳の中国思想の壁画について次回⑥として関大講座からレポートいたします。(‘11.7.15 中川 昌弘)

2011年7月13日水曜日

「古代の東アジアと日本」―最近の講演会で聴く―④(関西大学講座)東アジアの中の遣隋使と古代日本

11.6.23 関西大学文学部教授 西本 昌弘氏 於関西大学

 西本教授の講演から600年代の遣隋使の状況を次のように学びました。以下は「隋書」倭国伝の記載によります。

① 600年(推古8年) 倭王 遣使入朝「倭王は天を兄、日を弟とす。未明に政務(跏趺坐=あぐらをかいて座る)。日の出後は政務中止」⇒隋の文帝(楊堅)「はなはだ義理なし」→訓示して改めさせる。

② 607年(推古15年) 倭王 遣使朝貢「海西の菩薩天子、重び仏法を興す、故に遣使朝拝、兼ねて沙門数十人来たりて仏法を学ぶ」国書に曰く「日出ずる處の天子、書を日没する處の天子に致す、恙(つつが)無きや、云々」と、⇒隋の煬帝よろこばず「蛮夷の書、無礼なる者あり」→国書の体をなさず、私信の体。しかし、仏法を学ぶに数十人派遣し熱心、どこか倭国は骨ある国と思ったのか、高句麗に対する布石か、608年 斐世清を倭国に派遣した。

③ 608年(推古16年) 「煬帝は斐世清を倭国に派遣。清は都に至り倭王に相見(まみ)える。倭王曰く「海西に大隋礼儀の国あり、故に遣使朝貢す。我は夷人、礼儀を聞かず」→倭王は清(の帰国)に随い、使者を派遣、方物を献上。

 「日本書紀」推古16年の条でも斐世清の来日のことをより詳しく記載されています。高校生のころ、日本史で607年「日出ずる處の天子云々」と対等外交と学びましたが、実際は朝貢外交で、隋の文帝から政治のしかたを変えるように指導を受け、倭国もあらためました。608年には斐世清の来日に際し「我は夷人、礼儀を聞かず云々」とへりくだり、607年の国書のわびをいれているようです。仏教については沙門数十人派遣しその熱意が伝わります。倭は百済から552年、仏像と仏典を得ていました。朝鮮半島の情勢の変化もあり、直接中国から情報を得ようとしたのでした。

 仏教についてその後の中国からの導入状況を次回⑤として関大講座からレポートいたしましょう。(‘11.7.13 中川 昌弘)

2011年7月10日日曜日

「古代の東アジアと日本」―最近の見学会で学ぶ―③高槻市今城塚古代歴史館、史跡今城塚古墳見学

11.6.28 (吹田市立博物館ボランティア見学会)

 JR摂津富田駅より北(徒歩約30分、バス南平台経由奈佐原行き「今城塚古墳前」徒歩すぐ)無料。高槻市のボランティアの方々によりご説明いただきました。

① 「今城塚古代歴史館」 
(イ)高槻市近辺の古墳の3世紀から7世紀までの概況がわかるよう時代別に展示されている。
(ロ)平地に1人1回一袋をかついでつみあげた今城塚古墳のなりたちがわかりやすく展示されている。(ハ)その後の地震で崩落した石棺が復元展示されている。(ニ)埴輪のレプリカが展示されている。(埴輪工房が近くにあります。埴輪に船の線刻があるものがありました)(ホ)その他
  

② 「史跡 今城塚古墳」 今城塚古代歴史館を一旦出て、実際に古墳を見学できます。圧巻は古墳から張り出したスペースがあり埴輪がレプリカ展示されています、葬送儀礼の埴輪群で、発掘時の精密な記録により立ち位置が特定されています。被葬の大王が、命じたものと思えます。


③ 被葬の大王 宮内庁は継体天皇陵は、別の陵を指定しています。淀川流域で2重の濠をそなえた6世紀最大の前方後円墳は継体大王(聖徳太子直系の曽祖父)のものといわれています。注)後に、触れますが、天皇の呼称は7世紀の終り頃より使われ、それまでは大王と呼称されていました。

 御陵が宮内庁の天皇陵として指定されていない為、史跡公園として整備されているのは歴史の面白いところです。もし天皇陵として指定されていれば、立ち入り禁止で遠くから眺めるだけのものとなったでしょう。

(尚、当BLOG 2010年2月 思い込み古代史12 継体天皇の登場 を ご参考下されば幸いです。)


 600年代はじめ遣隋使を聖徳太子が派遣します。東アジアの中で、どのような位置づけにあるのか?④遣隋使は対等外交であったか?次回、関大講演会からレポートしましょう。(‘11.7.10 中川 昌弘)

2011年7月6日水曜日

「古代の東アジアと日本」―最近の講演会で聴く―②(関西大学講座)隋唐帝国と東アジア世界の成立

11.6.16 関西大学文学部教授 森部 豊氏 於関西大学

 森部教授の講演会から5-7世紀の中国の状況を次のように学びました。

① 中国では、後漢王朝が滅び、遊牧民族が中国北部へ進出し建国、5胡16国といわれる時代が続きます。漢族は揚子江流域に亡命し、南朝政権をつくります。5世紀初頭、439年、センピ族、タクバツ部族により華北が統一されます。北魏建国、これを北朝といいます。遊牧的部族制国家から中国的制度を導入します。均田制を導入、孝文帝は漢化を進め、洛陽に都をおきます。胡服、胡語を禁止します。543年北魏は北辺防衛軍の叛乱により、東魏、西魏に分裂、東魏は北斉に西魏は北周になります。

② 北周から政権を奪取したのが楊堅、後の隋の文帝です。581-618年隋が成立します。唐を建国したのも婚姻でつながっていた騎馬民族李氏です。日本は、遣隋(唐)使を派遣し、中国に学んでいきます。

③ 隋唐王朝は騎馬民族ゆえに漢族含む多様な民族に普遍的な統治の原理を要しました。それらは次のようなものでした。

(イ)体系的な法律制度=律令制(律は中国に残り、令は日本に残ります。)
(ロ)形式美に満ちた官僚制度と王朝儀礼
(ハ)新宗教(仏教)の導入
(ニ)理想都市としての都市プラン・・長安城の建設(日本の平安京のモデルとなった) 都城=天子の住まうところ、文明の中心地。文明の及ぶところが中華、それ以外は夷。

 隋唐帝国は、「胡」と「漢」が融合したまったく新しい世界であった。建国途上の日本は中国の強大な文明のパワーに刺激されて成立していく。朝鮮に於いても、高句麗がその脅威を受けていました。

 東アジアの中で、日本の歴史を考えてみますと、大きな流れの中で、善戦している日本が見えてきます。隋唐の法制度、仏教導入、都城論を聞いているとそれらに学んだ日本に照らし合わせ「目から鱗」のような理解を得ることができた気がします。

 次回は、倭の五王の後を辿ったと思われる高槻にあるH23年4月OPENの「今城塚古代歴史館」「史跡今城塚古墳」の見学の状況をレポートいたしましょう。(H23.7.6 中川 昌弘)

2011年7月1日金曜日

「古代の東アジアと日本」―最近の講演会で聴く―①(古代日本の姿)河内王朝と倭の五王

11.6.26 大阪府立図書館名誉館長 上田正昭氏 於大阪府立図書館

 上田名誉館長の講演要旨は次のようなものでした。
 「5世紀に河内に王朝があった。(1967年に発表)その根拠は、
① 和泉(757年に河内から分離呼称)に巨大古墳 大山古墳(伝仁徳天皇陵)全長486m 河内に誉田山古墳(伝応仁天皇陵)430m 和泉にミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)360m 巨大古墳ベスト3があり、ベスト5の内4までが河内にある。
② 古代には天皇即位の儀式に“八十島祭り”が行われていた。八十島とは国生みが、大阪湾で行われたことをあらわしている。
③ 和風諡号にワケのつく人が仁徳天皇除き続く。15代応仁天皇(ホムダワケ)16代仁徳天皇(オホサザキ)17代履中天皇(オホエノイザホワケ)18代反正天皇(タジヒノミズハワケ) ワケのかたまりをさす。尚、10代崇神天皇(ミマキイリヒコイニエ)11代垂仁天皇(イクメイリヒコイサチ)は吉備からヤマトに入ったイリヒコとのこと。

 その河内王朝は、中国南朝の宋に使いを出し、百済に迫っていきた高句麗に対抗するため、倭の5王が421年から60年にわたり朝貢する。讃(履中天皇)・珍(反正天皇)・済(允恭天皇)・興(安康天皇)・武(雄略天皇)である。

 上田名誉館長は、巨大古墳リスト、大王号和風諡号関連一覧、「宋書」関係原文、稲荷山古墳鉄剣、江田船山古墳太刀資料を元にされ、自説の絶対的自信と自説の弱点なども明確に説明され、400人にも及ぶ聴衆は魅了されたしだいです。そこに完成された人格を仰ぎ見ました。

 尚、小生 本BLOG 2010年1月「思い込み古代史」11「5世紀、ヤマトから大阪湾沿岸南地区へ」として関連項目の自説を記載していますので よろしければ ご参考下さい。 

 シリーズとして7回掲載予定です。次回は②5~7世紀の中国の状況について 関西大学吹田市民大学の講演会のレポートをします。酷暑の候 御身ご自愛下さい。各位のご活躍を祈念申し上げます。(2011年7月1日 中川 昌弘)

2011年6月15日水曜日

[Let’s watch movies]「奇跡」是枝裕和監督・脚本・編集

<ものがたり>「九州新幹線の一番列車がすれ違う時、願いをかければ、願いが叶う」そんな話を、母(大塚寧々)の里、鹿児島に引っ越してきた小学6年生の兄(“まえだまえだ”の前田航基)と福岡に父(オダギリジョー)と住む小学4年生の弟(“まえだまえだ”の前田旺志郎)がきく。別居を強いられる兄弟は九州の南北に分かれて、互いの父と母をきずかっている。一緒に住むのが「奇跡」と感じる兄弟は、それぞれ友達を誘って、九州新幹線の一番列車が交差する熊本にむかおうとする。子供たちの「旅」という未知の冒険で、話しはクライマックスに向かって進んでいく。感動の物語を紡ぐ。

<感想>大人の誰でも、各々の幼い頃、学校の先生から「大きくなったら何になる?」と問われたことと思う。この映画を観て、小生も、小四とき「ゴム会社の社長になる」(その頃、自主勉強でゴム会社を調べていた)小六の時は「電気会社の社長になる」何故かと先生に問われ、「戦死した父が電気会社に勤めていました」と言ったことを思い出して、映画の子供たちと一緒に心の中で叫んでいました。「奇跡」とは何か?観る人によって、それぞれの「奇跡」があるのかも知れない。この映画で得た、熱い思いは、忘れたくない。秀作だと思った。

 是枝監督はこどもに台本を渡さず、要点を示し自由に演じさせたとのことだ。「まえだまえだ」とその取り巻く子供たちの演技は自然だった。助演者陣に樹木希林・橋爪功・原田芳雄が存在感を示し、夏川結衣・阿部寛・長澤まさみが控えめに支える。スゴイ。妻と梅田ステーションシネマに観にいった。

 「奇跡」観る 少年の頃 思う梅雨
(☆☆☆☆☆2011年6月15日 中川 昌弘)

2011年6月9日木曜日

[本棚から]「ベニスに死す」トオマス・マン作 実吉捷郎訳

 「旅先のヴェニスで、出会ったギリシャ美を象徴するような端麗無比な美少年に、心うばわれた初老の作家アッシェンバッハは、美に知性を幻惑され、遂には死へと突き進んでいく。」

 以上は「ベニスに死す」の岩波文庫の表紙の解説である。ベニスのねっとりした空気のただようホテルで主人公アッシェンバッハは、古代ギリシャ時代の彫像にあったような美しい少年にであい、思わず、みとれてしまった。次第に少年のとりこになり、美の世界にさまよい、自らを没入していった。

 ルキノ・ビスコンティー監督のダーク・ボガード主演による「ベニスに死す」をDVDで観た。主人公の作家が作曲家に、主人公の周辺が創作されているが、完璧な原作の上にたつ完璧な映画となっていた。「老」と「若」、「偽」と「真」の対比により原作を立体的に、表出させていた。

 先日、神戸市立博物館に「大英博物館古代ギリシャ展」(6/12まで神戸 7月より国立西洋美術館で展示)を見にいった。古代ギリシャ展での展示物は、「筋肉」や「均整のとれた姿態」による造形美があった。

 「美の究極」は、それぞれの人生でそれぞれの人生ごとに発見構築されていくのであろう。その人生観とこの「ベニスに死す」が感応しあうはずである。(原作、映画とも☆☆☆☆☆  2011.6.9 中川 昌弘)

2011年5月29日日曜日

[エッセー]樹木しらべ事始

 公園等の樹木の木札を見て、樹木の名を確認するようにしている。

 植物図鑑 林 将之著「葉で見わける樹木」を持ち、その場で、葉と幹で樹木を調べていく。だんだんとわかってくるが、中々、樹木特定できない。最近、サンワみどり基金発行の「樹の本」のコメントを参考として標本を作っている。葉っぱを切り取り、ティッシュたでくるみ、自宅に帰って、水洗いして、よく拭いてティッシュでくるんで本の間にはさむ。2-3日で押し葉となる。そこでA4の紙に、葉の部分を細い紙で支え、貼り付けて、科名、属名、樹形、原産地、特徴等々を資料で調べて、付記して樹木葉っぱのシートとしている。
 
 しだいに、積み重なると、樹木に対する愛着が出てきます。地域を散策しながら、樹木からオーラをいただいています。

 村田喜代子さんの朝鮮からの陶工たちの望郷の念を綴った「百年佳約」という本で、「木婚」という、未婚の女性が、雌雄異株の雄の木を選び、髪の毛を3本、木の根に植えて、木の霊と結ばれる。30日間、誰とも会わず、一言も話せず、過ごし、30日後に人間と結婚するという「木婚」という儀式が古い朝鮮であったと書かれていました。日本でも、古来、神木としてあがめられてきた樹も多い。樹木との交流は、古くも、また新しい。未来につながっている。

 吹田の関西大学の正門前にあるクスノキの大樹にあうため、先日、友人を誘った。「吹田に幹まわり2メートル以上の大木、30本のうち23本がクスノキ」といいますと「高さ1.3メトルのところでの幹まわりで、全国レベルの大木は幹まわり3メートル」と教えていただいた。

 クスノキは大きく、堂々としていた。樹木と触れ合いながら、緑陰の下で友人との友好を深めた。(2011.5.29 中川 昌弘)

2011年5月20日金曜日

[エッセー]体と頭によい食事

 イチローさんがシーズン中、お家で食べる一食はカレーライスとTVでの情報で知りました。シーズン中は、イチローの奥さんが、きまった味で、定量のカレーを作り、冷蔵庫で保存して、イチローさんに提供されているとのことでした。別の情報で、アルツハイマーがインド人とアメリカ人を比べた場合、インド人に少なく、アメリカ人のほうが多いとのことであった。インド人の常食のカレーをイメージすると、カレーがアルツハイマーをおさえるのではないか、と思います。この2つを参考とすると、カレーライスを食べたほうがよいと思え、よく食べるようにしています。

 うなぎがよいとの情報も得ています。値段の高い方がよく、百貨店等での販売品を選んでいただいています。食べて翌日、何かすっきりと体と頭によいと実感します。

 青背の魚もよいと思っています。最近流行の回転寿司で、鰯(いわし)、鯖(さば)、鯵(あじ)、秋刀魚(さんま)を好んでいただいています。おいしさでなく、体にいいものという観点ですね。

 かつて、ホームヘルパーの実習で90歳以上の方の食事風景を学習しましたが、「お肉」も完璧にたべておられました。多分、適量の肉もよいと思います。沖縄の人に長寿の人が多いですが、豚肉がよいのでしょう。
時にいただきます。

 ベースとしてのカルシューム補給として、一日牛乳コップ2杯とる。果物はバナナ・りんごなど、トマト・南瓜などの黄赤緑色野菜・・・納豆・豆腐・・・・いろいろとありますが、情報を収集して長命の人がとっている食生活をマネをして自分流食事のルールを築くことだと思います。(2011.5.20 中川 昌弘)

2011年5月8日日曜日

[本棚から]「日の名残り」カズオ・イシグロ著 土屋政雄訳 ハヤカワepi文庫

 <カズオイシグロ>1954年長崎生まれ5歳の時、家族で渡英。ケント大学で英文学を、イースト・アングリア大学で創作を学び、1989年長編3作目の本作で英国で権威のあるブッカー賞を受賞。

 <あらすじ>品格ある執事の道を追い求めて生きてきた主人公、ステーブンスの1956年7月の英国南部地方の数日の旅の物語。
 ステーブンスの現在は、オクスフォードシャーのダーリントンホールのアメリカ人の執事となっている。元女中頭ミス・ケントンを尋ねることを旅の目的として、現主人ファラディー氏のフォードを借りて英国の田園風景の中をドライブ旅行する。
 旅の途中に思い出すこととして、元の主人ダーリントン卿の第一次と第二次の世界大戦の間の、非公式の外交交渉の舞台裏を執事として見聞きしたことを緻密な筆致で描き出す。
 その間、執事とは?人間として何を目指すのか、人間の品格とは?とかってから考えたことを述べていく。ドライブ旅行で出会う村の人々の考え方も紹介される。

 The Remains of the Day「日の名残り」夕日は美しく輝く。人生の夕日も、なおまた、美しい。カズオ・イシグロは、繊細な日本人の遺伝子を持って、英国のことを、人間のことを執事の言葉を借りながら、英国の村人の言葉をかりながら述べていく。(2011年5月8日中川 昌弘 ☆☆☆☆☆・・・是非ご一読をお勧めしたい)

2011年4月27日水曜日

[エッセー]きのうきょう

 H23年4月26日(火)梅田ニューシティーを通って新装開店の大丸にたちよった。東急ハンズが10-11-12階にオープンしていた。結構人が込み合っている。その足で、阪神百貨店を覗くが、人が少なく感じた。夕飯を蓬莱の天津飯とした。そこで駄句。

 初夏梅田 天津飯の 美味なりき

先ほど観た、周防正行監督の「ダンシングチャップリン」を思い出していた。
2章立て。
1章ダンシングチャップリンを作るにいたるプロセスがフランスの振り付けの巨匠との対話他等のどきゅめんたりーとしていた。
2章 1幕13場のチャップリンバレー、チャップリン演じるボニー、嬉々と演じる草刈民代、哀愁深いボニーの抑えた演技が、哀しさを誘う。

 そんな幸せの時間を得たのだと、今、H23.4.27思っている。が、、、

 東北大震災の募金、現在○○○円です。との募金箱を昨日(H23.4.26)見た。すっと僅かだが、○○円を提供した。遠く離れた地続きのところで、幸せを感じる人があれば、苦しみに耐える人々の時々刻々がある。みんながなんとかしょうと思っている限り、何とかなるだろう、と思っている。(H23.4.27 中川 昌弘)

2011年4月19日火曜日

[Let’s Watch Movies]「川の底からこんにちは」

監督・脚本 石川 裕也 主演 満島 ひかり(「悪人」に出演) 千里セルシーシアターで、先日、観ました。

(ストーリー)5年前、駆け落ちして、5人の男に振られ、OL生活から父のしじみ業を引き継ぐ女性のお話。
 しじみとりの男たちの奥さん方を工場に雇い、父は死を宣告されている。元勤め先の課長と仲良くなっている。その彼氏も、子供を連れてしじみ業の田舎にやってきた。
 「中より下」の生活と自身を自負して、自分をさらけ出し、開き直り、果敢に生きていく。つくろいもなく、さらけ出した時、みなの顔が輝いてくる。

 川の底から"がんぱろう"と叫んでいる。

 東日本大震災を経る前に作られた作品だが、どこか関東の町でのお話。津波による大震災と原発事故で、痛めつけられた日本は、世界で、中の下の国かもしれない。中の下の人間たちかもしれない。この映画のように「がんばろう」と地の下、海の底からみんながいえば、何とかなると思った。(☆☆☆☆ H23.4.19中川 昌弘)

2011年3月29日火曜日

[東北関東大震災に思う]阪神大震災を経験したものとして

 H23年3月11日午後2時46分、大阪心斎橋大丸百貨店の某階手摺にじっともたれていた。数分間、体が揺れたので蛍光灯の照明器具をみたが、蛍光灯も揺れていた。
 あの未曾有の大震災が東北関東で起こっていた。その後、30分以内に津波が押し寄せた。

 先月、クリント・イストウッド監督の予知力をテーマとした「ヒアアフター」という映画で主人公の1人が青い海にのまれる津波のシーンが心に残っていた。TVで何回も観たが実際は泥の海だった。
 クリント・イストウッド監督は予知力があったようだ。東北関東大震災で、なくなられた1万1千余人の方々に黙祷をささげます。そして行方不明1万8千余の人々の安否に心を痛めます。

 H7年1月17日、阪神大震災で地震・火事で母を亡くした。消息を尋ねて大阪から電車で乗り継いで、西の宮から神戸まで歩いた。この道々、ボランティアの人々が提供された、無料のうどんのあたたかさは忘れません。パンもおにぎりもありがとうございました。小学校の仮眠所では皆でいたわりあって眠った。自衛隊の皆さんに遺骨探しを手伝って頂いた。会社の皆さんからは、義捐金をいただいた。どれほど感謝しても尽きない思いが残っている。

 人のぬくもりといただいた奉仕のお心は、その後の人生で忘れることは出来ません。

 今回は、原発事故が重なり、原発停止には先行き深刻な日々が続きますが、関係各位のがんばりで安全停止を期待しています。自然の猛威に対して、人類は人智の限界を悟っています。(環境学習をした際、原発で地震の対応を質問した際、電力会社出身者は「原子炉をとめりゃいい」との答えに、更なる大きな地震に対して
どうするのか「別のところで話をしょうか」と絶対的安全を強調していました。何でもできるというおごりは
一番恐いです。)

 遠隔各自治体の献身もすばらしいです。日本全体で、被災地の皆様を支えましょう。

 被災された方々には、勇気を失わず、新しい未来を信じてがんばって下さい。(H23年3月28日 中川 昌弘)

2011年3月4日金曜日

[エッセー]マイブックに描く心の旅

 マイブック(文庫本タイプの空白の日記ノート)新潮文庫340円(税込)を3年ほど使っている。中身は色鉛筆でその日その日のことを絵にする。素人目ながら、毎日描いていると多少はうまくなるもののようだ。きっかけは、妻からプレゼントされたことと、脳の活性化のために、その日のことを画像化すると、よいとの情報を得たからだ。画題の例は、観た映画の印象的なシーン、思い入れのスポーツの選手像、読書中の本の表紙、風景、植物、気にいった漫画・・・・。3年ほどたった今、その感想を記して参考になればと思う。

① 前日の3食を手帳に記しているが、絵を書いている以前は言葉として思い出していたが、現在は映像で覚えるようになっている。前夜の夕食の食卓をビジュアルにカラフルに思い出す。これは絵を描いているからだろうと思う。

② 風景や事物を見た場合、対象を視覚的に左右、上下、遠近と脳で分解し、再構成していることに気がつく。つまり絵を描くように脳でシュミレーションしている。このことは何気なく通過する事物、風景を分析的に見ていることになる。どんなメリットがあるかは知れないが、脳を活性化していることには間違いない。

③ 日によって、余裕のある日は、じっくりと描ける。この場合に達成感が生ずる。いわゆる「ヤッター!」という感覚だ。時間がないと新聞等から題材を探し、義務感で描く。この場合おもしろくもなんともないが、たまに自画像も描く。結構これがおもしろい。自分を客観視するのも、よいことだと思う。

 別に書いている日記は、一日のけじめをつけている。見直すことはほとんどない。
 マイブックに描く絵を、ときどき、ぱらぱらと振り返る。一瞬に過ぎ去る過去たちが、現在という時間を生きているということを知らせてくれる。人に見せることのないこころの旅路だ。(H23.3.4 中川 昌弘)

2011年2月23日水曜日

[Let's watch movies]「ヒアアフター」クリント・イーストウッド監督

 クリント・イーストウッド監督マット・デーモン主演「ヒアアフター」を観ました。次の感想をご参考下さい。

<主題> HEAR は ここ AFTER は その後。生きている後はどうなるだろうか?という万人の疑問へクリント・イーストウッドが 少し 扉を開いてくれ その一端を みせてくれる。

<構成> 3つの話からなる。女性ジャーナリストが覗く瞬間の死後の世界、霊能力のある男性が、死者とインスピレーションでつながっている苦悩の世界、双生児の少年の弟と兄の時空を越えてつながる世界。3つの都市(パリ、サンフランシスコ、ロンドン)に住む3人が一つの都市につながっていく。

<感想> 覗いたことのない次の世界をふと垣間見たような気がしていますが、クリント・イーストウッドも確たるものとは提示し得ない。誰も観たことがない世界だからこそ、ありえると思う人にある世界。観終わって現実の世界が明るく、現在が希望と爽快なんだと感じました。

 クリント・イーストウッド監督は80歳になっても、若々しいエネルギーをもち、「硫黄島からの手紙」「グラントリノ」「インビクタス」と人間のいきざまをさまざまな人種(それぞれ、日本人・ベトナム少数民族・南アフリカ人VS白人)で探究し、チャレンジする人々を描いてきました。今回は、次なる世界を観客と一緒に探検しています。音楽も自作だし、あふれるエネルギーの源は、次々と求める大きなテーマをもっていることだと思いました。この映画も素晴らしいですが、創ったクリント・イーストウッドという人は、素敵な人生をおくっている。(☆☆☆☆)(2011.2.23 中川 昌弘)

2011年2月20日日曜日

[エッセー]ヘソヒコウキ教室を舞う

「FREEDOM!」
13世紀末イングランドにとらえられて拷問の刑で死ぬ前に国王に慈悲を請えば安楽死させる、という獄吏の言葉をさえぎって、民衆に叫んだアイルランドの英雄ウイリアム・ウォーレスの言葉(メル・ギブソン監督主演「ブレイブハート」68回アカデミー賞6部門受賞映画より)

 ボランティアの6名の方々と年6回の最終日としてH23.2.19江坂大池小サタデースクール昔遊びコーナーに同校1-6年40人ほどの児童に「ヘソヒコウキ」の折りかたを教え、各々好きな絵を翼に書いていただいた後、児童で飛ばし競争をしました。
 
 最高の人は10メートルまで飛ばしました。飛ばない子に「飛行機修理」をと、ボランティアの方に言われ、とまどいました。「ヒコウキは左右対称、翼が曲がっているよ。ここをこう改良すれば飛ぶよ」といって、修理?した飛行機をやさしく飛ばしてみると、うまく飛び、ほっとしたのです。参加の生徒も楽しんでいました。

 紙ヒコウキはH22年5月、万博公園で休日に紙ヒコウキを飛ばしている堀川先生に北千里の吹田自然体験交流センターでヘソ・イカなど数種、教えて頂き、紙飛行機デザイン工房 長松康男氏の「とってもよく飛ぶ紙飛行機」という2冊の本で学びました。

 別にNPOでも児童の環境教育に参加していますが、組織的に動きます。リーダーがいて、命令があり、復命があり仕事がなされます。今回のサタデースクールは、応援いただくボランティアも自発的で出欠をとるでなく、参加してほしいなという希望の祈りのみがあります。テーマも、進行方法も自分流で、悩みます。結果は子供たちが翌年に判定します。今年は去年の実績によつて、47人が他にもいろいろとある中で「昔遊び」を選びました。

 あるボランティアの方が言われました。「来年度、参加人数が維持できれば及第ということ。少なくなれば、"よくない"ということ、多くなれば"よかった"ということ。生徒が選択の"自由"をもっている。」

 選ばれたもののみが残っていく。世の中の自然の流れを江坂大池小サタデースクールで感じました。(H23.2.20 中川 昌弘)

2011年2月18日金曜日

[エッセー]視力回復へエクササイズ

 高等学校のころまでは、両眼とも視力1.5でした。大学では、試験前の徹夜、企業戦士ではパソコン朝星夜星の激務、通勤車中での読書で、乱視付きめがねをかけるに至り、熟年となり遠近両用めがねをかけています。
 さる人が、視力を向上する方法を実践されており、回復に顕著として次の方法を教えて頂いた。

 目を左右、上下、斜め上下と顔を動かさず、目の玉をぐるぐるまわすこと。

それを、繰り返し数年行ううち、新聞情報もとりいれ上のエクササイスに加え、「遠くの木を標的に選ぶ。片目をつぶり、遠くの木を凝視する。反対側の目も、片目をつぶり、遠くの木を凝視する。これを数度行う。次に近くの看板の文字などを標的にえらび、どうよう、片目づつ凝視すること数度。」

 これにより、自身の目の状況がわかり、エクササイズにより視力が回復していくと思います。特に、読書した後やパソコンした後に、効果があります。

 両親からいただいた視力は年齢と共に衰えるのはやむを得ないことですが、できるだけ現状を以前に回復していきたいものです。(H23.2.18 中川 昌弘)

2011年2月12日土曜日

[本棚から]シモーヌ・ド・ボーヴォアール「ある女の回想-娘時代」

 シモーヌ・ド・ボーヴォアール(1908-1986)「ある女の回想-娘時代」をこのほど読みました。

 フランスの20世紀の「知」の人。サルトルと交友があり、50歳代になって 幼児から20歳前後の自分の魂の遍歴を著述したのは、おさえがたい娘時代の思いがあったのだと思う。

 彼女は、哲学であるいは文学で、他者に訴えようと10代の頃から沸々としたものをもっていた。そのほんの一部をひも解いてみよう。

 父母とは、理解し得なかった。宗教とは何か?何度も問いかけている。20前の結論は「神はいるのか」という疑問を持ち続けている。友は、女性にも男性にも絞り込んだ人がいた。将来の夫は誰なのか?で会う男性で、絞ろうとしたが、絞りきれなかった。真の女性の友は、20前後のその頃、亡くしてしまった。意中の男性は、煮えきらず、結局、分れてしまう。その男性は、40代のころ、事業に失敗して、亡くなってしまう。

 この二人はシモーヌ・ド・ボーヴォアールの青春の時代の魂を反問・行きつ戻りつした希望の人であった。

 20代以降に生涯を通じて、インスピレーションを与えつづけたのは、知友サルトルであるということを、終章でだけ述べている。

 まわりくどくなったが、20歳までのこころの遍歴と、20歳以降のこころの遍歴は違うということだ。しかし前者の思いは生涯を通じて消えなかったということである。

 緻密な振り返りは、3歳くらいからはじまっている。シモーヌ・ド・ボーヴォアールの精神の遍歴を辿る時、若い人たちが読めば、益すことが多いと思う。熟年の人が読むとき、毎日の大切さを思うかもしれない。

 ローマは一日にしてならず、である。(11.2.12 中川 昌弘)


 

2011年2月4日金曜日

「Let’s Watch Movies」「息もできない」監督・脚本ヤン・イクチュン2008年韓国映画

 家族の苦しみと戦いを描く物語。世界の映画祭(ロッテルダム・東京フィルメックスなど25以上)で賞をとっている。

 主人公はチンピラヤクザ(ヤン・イクチュン監督が主役を演ずる)、道を行き交う少女につばをかけた。ここから物語りは始まる。少女は高校3年生。ただものではない。家庭に悩みを持つ。父はベトナム帰還兵で、心の障害を持つ。チンピラヤクザの父も家族に暴力をふるって妹を死にいたらしめ刑務所に服役して孤独に生きている。両方とも、母が死亡。殺伐たる家族たちの風景。チンピラヤクザは不良債権を暴力を使って回収するのを業としている。こころのよりどころは姉の息子である。高校生少女の兄も定職につかず、少女を悩ませる。

 こんな二人がソウルを流れる漢江の土手でしみどみと語り痛みを癒しあう。

事態は急転していく。

 雑誌の2010年度の優秀外国映画一位をとり、シネマート心斎橋で異例の延長上映を行っていたので見る事が出来た。最近、台湾映画「モンガに散る」という映画も観たが、若いヤクザの抗争で、家族がからんでいた。一般的に、現役世代の家族が平穏であることは少ない。日本の園子温監督(「冷たい熱帯魚」2/5封切り)は「おだやかな家族が登場する日本の映画やTVドラマは、現実を癒す麻薬であり、麻薬は常用すれば更なる癒しを求める。」という主旨のことを日経新聞1月12日夕刊に載せていた。符合するかのように韓国のこの映画は、日本のそれらとは逆にどろどろ生々しい家族の闘争を描いている。

 混沌としているはずの日本の家族の今と、混沌としている世界の今を考えさせる映画だった。(11.2.4中川 昌弘)

2011年1月24日月曜日

Let's watch movies 「海炭市叙景」監督 熊切 和嘉 原作 佐藤 泰志

 十三第七芸術劇場で「海炭市叙景」監督 熊切 和嘉 原作 佐藤 泰志 を観ました。次のような感想を持ちました。

 どこでもある風景、例えば、電車に乗り合わせた隣の人、向かえ側の人 それぞれの人生がある、そんな日常を、作者佐藤 泰志は自身の故郷の函館を模して海炭市として、さまざまな普通の人を登場させ「海炭市叙景」を残し、41歳の若さで自らの命を絶った。

 話は1989年頃、好況の日本経済も曲がり角に立っていた。造船会社では首切りの話、地上げしてショッピングセンターにしょうとする動き、燃料屋は浄水器などを扱って売り上げ低迷を打開しょうとするしたり、定年前の市電運転手が黙々と働いているし、プラネタリウムの職員は妻の夜の仕事に悶々としている・・・・ そんなこまごました日常をつなぎあわせた物語だ。

 画面に出てくる男女や子供がどんな関係かを画面の細部から推理していく。くどくどしい説明はない。

 その家にはひっこししてきたと思わせる包装材につつまれた家具がある。奥さんは30前後か、子供が小学高学年のようだ。夫は暴力をふるう二代目社長。夫婦仲は悪い。そこで観客は次のような想像をする。最近再婚した後妻か?妻がつらく子供にあたるのは継母だからか?夫が浮気しているからか?このような人間関係をそれぞれに類推させるシーンで多くが構成されている。その点、画面に見入ることになる。

 熊切監督は大阪芸大出身の若手である。バブル後の一都市のできごとを精力的にしかし淡々と描いた。

 2009年カンヌ映画祭でグランプリを取った第一次世界大戦前の次代を描いたドイツ映画「白いリボン」も、同様な手法で、主人公の先生を除く登場人物たちに、次々と事件が起こるが、余計な説明がなく観客が推理していく。その回答もない。子供たちが不気味なのは、後のナチスの登場を暗示しているという。

 「海炭市叙景」は低迷のしりすぼみなこの20年の原点を暗示していると読むのか?その答えは観客にゆだねられている。どっしりと重たい。(11.1.24 中川 昌弘)

2011年1月8日土曜日

[Let’s Watch Movies]「最後の忠臣蔵」監督杉田成道 主演役所広司 桜庭ななみ

人形浄瑠璃「曽根崎心中」を絡めながら、討ち入らなかった二人の侍(寺坂吉右衛門=佐藤浩一、瀬尾孫左衛門=役所広司)と大石内蔵助の隠し子 可音(かね)= 桜庭ななみ で展開される物語。
梅田ピカデリーで観ました。当時の武士道を想い、現代の日本にかけてしまったことを憂います。
瀬尾孫左衛門の子孫に20代の頃、仕事でお会いして、一食のご恩があります。瀬尾種苗店が赤穂にあり、先祖の孫左衛門さんが諸所全国を回り長門にもたちより、自分の立場を説明してまわったと、お食事をいただきながら、子孫からお聞きしました。この映画の、内蔵助の隠し子可音(かね)を育てたという内容とは異なるように思います。瀬尾孫左衛門は大石内蔵助の1500石とりの家臣で、浅野家の陪臣でした。そんなエピソードを思い出しています。
可音(かね)が結婚する花嫁行列に、次々と元浅野家の家臣がはせ参じるところは感動的でした。
梅田ピカデリーをでた後、泉の広場から梅田地下道を通り、地下鉄梅田駅に向かいました。途中、リニューアルした富国生命ビルB1Fフコクフォレストに立ち寄りました。ちょうど18時58分くらいより、時報を知らせる音楽が鐘の音のように心に荘重に響き、木のフロアに映じられる花々の映像を見ながら、「最後の忠臣蔵」の余韻を反芻していました。この数分の音楽は私の子息の作曲によるものです。その人のこころのありように共鳴します。(10時ころより22時くらいまで、映像と音楽が時報を知らせます)

忠臣蔵と鐘のような時報を告げる音楽が私の心で不思議な共鳴をしていました。よい時をもつことができたと心が喜んでいました。(11.1.8中川 昌弘)