2009年12月26日土曜日

(思い込み古代史) [反論]邪馬台国について(その2) 富田 弘氏

 30年以上の邪馬台国追跡の後が裏打ちされる富田 弘氏の次の論文(2)をご覧ください。にわか古代史思い込み人の短絡思考には到底及ばぬ深さがあります。(中川 昌弘)

2 考古学から
  考古学のシンポジュームで九州の専門家が「九州の考古学者で、邪馬台国が九州にあったと考えるものは一人もいません」と発言したらしいです。これはオーバーでも考古学からは畿内説が断然有利です。

■巻向遺跡
ヤマト三輪山山麓の100haから200haの広大な遺跡です。40年前から本格的に発掘調査が始まっていますが発掘面積はまだ1%程度です。今までの調査で注目すべき点は
①土器の範囲が、関東から北陸、東海、山陰、瀬戸内西部まで広がっており、外部からの搬入率は20%を超えていること
②計画的な都市設計として幅5mの二条の大溝が発掘されたこと
③初源期の高塚古墳が出現したこと
               
 更に今年の3月、11月に3C最大の建物跡が発掘されました。南北19mあり飛鳥時代の建物に匹敵するとのこと。高床式の建物跡と見られ卑弥呼の宮殿の可能性があります。巻向遺跡は当初4Cの遺跡と見られたが、土器から3C初頭から中期とみなされたことが最も重要なことと思います。近年箸墓古墳も3C中/後半の造営と時代がさかのぼったことも畿内説にとっては有利です。

■三角縁神獣鏡
これほど話題になるが結論が出ないものは少ないと思います。魏鏡であっても国内鏡であっても、畿内から各地の有力者に分与されていることは事実です。国内鏡説の学者も畿内から分与されていることから畿内説です。この中で、①戦国から西晋時代(BC3C~4C)の中国鏡69枚と、三角縁神獣鏡8枚、古墳時代(3C~5C)の日本製鏡18枚を科学的に分析した結果、製造年代の古い三角縁神獣鏡6枚が中国西晋時代(3C~4C)の魏や呉の年号をもつ中国鏡と、青銅に含まれる銀とアンチモンの量が近い数字となった。残る三角縁神獣鏡2枚は古墳時代の日本鏡と近い数字となった。また、②静岡県出土の三角縁神獣鏡の銘が中国河北省出土の中国鏡の銘とまったく同一であったことがわかりました。銘は14文字、これに含まれる「甚「独」「奇」という字は魏鏡の特徴ということ。③黒塚古墳出土の三角縁神獣鏡で、らくだを描いた鏡があったはずです。鏡の分析は精緻に進んでおり、中にはどうみても国内ではできそうにない優れたものもあるようで、①の三角縁神獣鏡に中国鏡と国内鏡があったらしいという分析は興味があります。私は古い時代の三角縁神獣鏡は魏からの倭国への特注品と考えていいと思います。

■北九州の遺跡
奴国が漢に朝貢するなど北九州が国勢・文化の中心であったことは事実です。中国鏡の量、鉄器・青銅器の総量、重厚な甕棺墓の副葬品などがそれを証明します。問題はこれらの遺跡が2C末を境にきえていくことです。吉野ヶ里遺跡も3Cには集落の内溝に後漢の鏡が放棄され、弥生時代末期にはムラは廃絶されてその位置に畿内型古墳(前方後円墳)が造営されたことがわかっています。(続く)

2009年12月18日金曜日

(思い込み古代史) [反論] 「邪馬台国について」(その1)  富田 弘氏  

 09.12.17 連載中の「思い込み古代史」の「邪馬台国」「ハツクラシラススメラミコト」に対し、畏友 富田 弘氏より(反論)を拝受しました。今回より3回にわけて、ご紹介します。筆者がサラリーマン時代、富田 弘氏と知り合った30年前、既に邪馬台国ヤマト説を主張され、当時、上役にあたる九州論者と丁々発止の論戦をされていました。それから30年の月日が経ち、静かに富田氏の「邪馬台国論」に読者諸氏と共に耳を傾けてみたいと思います。長文ですが、よろしくお願いします。(いにしえのことに勝手に思い込む人 中川 昌弘)

 邪馬台国論争は端的にいえば“どこにあったのか”ですから、畿内説の立場で考えを述べます。ただし、今後も新しい状況証拠を積み重ねることで蓋然性は高まるとしても、超一級の史料たとえば中国本土、あるいは帯方郡治があったという平穣南方あたりから邪馬台国に行く地図などが見つからない限り、確定はできないと思います。ということは半永久的に論争が続くことになりますが、歴史のロマンとしてそれはそれでおもしろいと思います。

1 魏志倭人伝から
■方位・里程
 帯方郡を出てから邪馬台国までの道筋について、まず倭人伝は郡から途中の経過する諸国間の方角・距離を示し最後に郡から邪馬台国までの総距離を記しています。不弥国までは距離を示すのに里を用い、それより遠方の投馬国・邪馬台国は里ではなく水行・陸行に要する日数を記載しています。この違いはなぜでしようか。陳寿の依った情報の違いによると考えられます。倭人伝は伊都国を郡使常に駐(とど)まる所としています。従って通常郡使は伊都国から先へは行っていません。伊都国近隣の奴国・不弥国は役目がら郡使が自ら調べるなどして距離を把握できたとしても、投馬国・邪馬台国はあまりに遠大であるため、倭人の話・伝聞などで行き方(水行・陸行)、方向と日数を掴んだと考えられます。もしくは、親魏倭王に任命する詔書を持参した郡の高官や、狗奴国との争い時に激励の詔書や幡を渡した高官は重要さから邪馬台国まで出向いているので、この時の報告が記事の元になっているかもしれません。倭人の話や伝聞、数回程度の郡高官の体験では里で距離を把握することは無理で、不弥国以遠の道程は大枠の記載になったと考えます。

 それではなぜ郡から邪馬台国までを万2千余里としたのでしょうか。すでに松本清張が看破していますが、これは「遠く長大な距離という観念的な数字」に過ぎないということです。具体的には漢書「西域伝」で西域諸国の王城までの距離について、「ケイヒン国(カシミール)」長安を去る万2千2百里「ウヨクサンリ国(ペルシャの東)」長安を去る万2千2百里、「コウキョ国(キリギス)」長安を去る万2千3百里、「ダイエン国(タシケント)」長安を去る万2千五百五十里などとなっています。漢書は三国志より前ですから陳寿は当然参考にしており、邪馬台国は遠く離れた国として実距離ではなく慣例的に万2千余里としたに過ぎません。

 連続式で読んだ場合不弥国から邪馬台国までは1300里ですが、水行30日さらに(または)陸行1月かかるとなります。放射式で読むと伊都国から1500里ですが、水行10日さらに(または)陸行1月要するとなります。記事の里数から実距離を推定すると1300里から1500里は130kmから150kmくらい。これを連続式では水行30日さらに(または)陸行1月、放射式では水行10日さらに(または)陸行1月かかるとなりますが、これでは日数がかかり過ぎです。万2千余里が観念的な距離であることを証明しています。

 さらにいえば、魏時代の1里は約430mです。これを基準にするととんでもなく遠くになりますが、国と国との比率はおおむね妥当です。比率が妥当ということは郡使の報告は正しいが、里数について陳寿による誇張があったと考えざるを得ません。(前述の検討は実距離に合わせて1里=100mとしました)

 このように誇張の混じる里数が混在する中で、観念的な万2千余里にこだわっても意味はないと思います。
なお、放射式読み方には致命的な弱点があります。まず、放射式で水行すれば陸行すればと読んだ場合、投馬国は邪馬台国より南となり、投馬国は邪馬台国の北にあるという倭人伝の記事と矛盾してしまいます。さらに、放射式とは目的地までを方向→国→距離の順で記すことですが、道程の最初の記載である狗邪韓国までは放射式の記載です。次の対馬国から伊都国までが連続式、次の奴国から邪馬台国までは放射式となります。目的地の邪馬台国までの道程を放射式→連続式→放射式の意味付までして使い分けるものでしょうか。「梁書」(7C代)や「太平御覧」(唐代)などの中国の史書は三国志を引用した箇所は道程を連続式に読んでいるとのことです。漢文の本家の中国でそうですから、連続式に読むことが自然で妥当です。

 それでは万2千余里にこだわらず連続式に読むとどうなるか。九州説も畿内説も対馬国、一支国、末慮国、伊都国、奴国の推定地は一致しています。末慮国推定の唐津、伊都国推定の前原、奴国推定の福岡の博多湾一帯は、それぞれ次の国に向かう実際の方向は東北です。ところが倭人伝記載はすべて東南です。九州説も倭人伝の記載に忠実ではありません。さて、倭人伝は奴国から東100里で不弥国ですが、有力な候補地は南方の宇美です。ただし投馬国に行くべき水行できる川があったのでしょうか。筑後川はかなり南を流れています。私は水行の記事から不弥国を奴国北東の博多湾沿岸津屋崎と見ます。ここから玄界灘を東行、周坊灘を南下、瀬戸内海を東行し、投馬国(吉備玉ノ浦あたり)を通り邪馬台国(ヤマト三輪山山麓)へたどりつくと考えます。倭人伝のとおりに宇美から南水行30日では、どの地をとっても九州を通り越してしまいます。九州説どころか倭人伝の道程を否定してしまいます。このため、畿内説は宇美からの倭人伝の方向を南から東に読み替えますが、九州説は水行や日数を倭人伝に合わすため、末慮国まで戻り五島列島を経由、島原湾、有明海をとおり筑後川河口の邪馬台国(九州説の有力候補地)にたどり着くという不可解な説明になります。あるいは水行の日数を短縮するなどの修正をすることになります。
 
 このジレンマの原因は倭人伝が里数に加え方位も正しくないことによります。倭人伝の前文で「倭人は帯方の東南大海の中にあり」となっています。古地図でも日本列島は南にぶらさがった形になっています。倭国は帯方郡から東南の範囲に収まらなければならないため、諸国への方位は南・東南・東のどれかで、遠方の投馬国・邪馬台国への方位はともに南です。陳寿は方位・里程記事は帯方郡の役人の報告などをベースにして、東南に長く続く国すなわち“その道里を計るとまさに会稽東冶の東にある“に修正したのだと思います。したがって倭人伝の方位・里程記事はそのまま信じることはできず、畿内説・九州説にとって有利・不利はなく、道程に合理的な補修をして、考古学などのからの候補地とスムーズに結びつくか判断することになります。

■倭国大乱
 倭人伝は2C後半に倭国大いに乱れると記しています。これは朝鮮半島からの先進物や鉄資源の交易ルートの支配権を争う北部九州諸国と畿内・吉備連合との戦いであったと考えます。畿内・吉備は平坦地で土壌が肥え開墾も盛んで人口増が続いていたと思います。人口増に対応するため生産性を高める必要があり、先進物や鉄製品を渇望していたはずです。特に鉄は当時は朝鮮半島南部でしかとれず、貴重な鉄も含めた交易権は北九州の諸国が握っていたと思います。吉備地域では2C後半には楯築形の墳丘墓などが造られ始め、墳墓を祀るときの地域共通の特殊壺や特殊器台が見つかっています。これは地域としての政治連合ができていたと考えられます。畿内でも弥生時代の唐古・鍵遺跡(奈良)や池上曽根遺跡(和泉)など大規模な環濠遺跡があり、有
力な国があったと思います。この畿内と吉備が共通利益のため、連合して北九州の諸国と戦ったと考えます。この畿内・吉備連合は後々までも続くことになります。同じ時期山陰でも四隅突出型墳丘墓が数多く発掘されており、山陰と吉備の関係から山陰勢力も吉備側に加担したとも考えられます。

 この争いは畿内・吉備連合が勝利し、北九州諸国を含めた盟主たる邪馬台国に従う倭国政治連合が出来上がったと考えます。畿内・吉備連合が勝利した理由は明らかに生産力の差です。連合の中心と思われる邪馬台国7万戸、投馬国5万戸という力です。

 2C末には九州の環濠は、吉野ヶ里を含めすべて埋められていること、王の墓と思われる甕棺墓の重厚な副葬もなくなります。一方櫛目文式や庄内式という畿内様式の土器がこの頃から九州・中国・四国へ広がっており、広域の政治連合が出来上がった裏づけになります。この争いの北九州諸国の中心は伊都国と奴国と思いますが、伊都国は世世女王国に従うとなっていることから、争いの途中で邪馬台国側についたかもしれない。そして国には邪馬台国からの一大卒、大倭をおき、これらの派遣者とともに諸国(特に北九州諸国)を邪馬台国の代行として支配していたと考えます。なお、伊都国は戸数1000戸となっていますが、役割からはあまりに少なく陳寿が参考にしたといわれる「魏略」記載のとおり1万戸ではないかと思います。

 また、今年1月淡路市垣内(かいと)遺跡から1Cから3Cの鉄器工房跡10棟が発見されました。国内最大級で畿内・瀬戸内へ製品を供給したと思われます。6Cまで鉄器生産遺跡は見つかっておらず貴重な発見です。淡路島ということが瀬戸内の交易ルートを裏付けるとともに、畿内・吉備の政治連合のバランス感覚がみてとれます。

■狗奴国
 九州説・畿内説どちらにしても狗奴国を特定しなければなりません。九州説は楽ですが畿内説にとっては難問です。倭人伝で王が存在するのは邪馬台国、伊都国、狗奴国三国のみです。戸数7万戸の邪馬台国と長年争っているわけですからかなりの強国のはずです。この観点から狗奴国は濃尾平野にあったと考え、遺跡の発掘状況からその中心は岐阜市・一宮市あたりと見ます。濃尾平野は木曽三川の恩恵から土壌も肥沃で生産性も高かったと思います。この地域は2Cには畿内様式とは異なった銅鐸を製作していたこと、3C前半には前方後円ではなく前方後方墳丘墓を盛んに造るなど独自の文化をもっています。その文化は近江東部、伊勢地方まで広がっていたはずで、倭人伝にいう邪馬台国の南としておかしくないと考えます。畿内説論者の中にも狗奴国を官の名前の狗古智卑狗(きくちひこ)から熊本県菊池郡にあてる人がいます。この場合は伊都国が邪馬台国の代行として狗奴国と戦ったことになりますが、それならば帯方郡の高官はなぜ邪馬台国まで出向いたのかなどしっくりしません。狗奴国は濃尾平野にあったと考えたほうが合理的。案外狗奴国の位置を特定することが邪馬台国位置論の決め手になるのかもしれません。(続く)

2009年12月10日木曜日

(思い込み古代史) [閑話休題] 生活文化 、日本の東と西

 縄文時代を通じて、人口が15-25万人くらいでしたが、東に85%、西に15%と居住が片寄っていました。これは、気候による植生がおおいにあずかっていると思われます。文化人類学者の故中尾佐助氏、佐々木高明氏が1970年代以降唱導されている説で、現在より気温が2度ほど暖かくなった縄文時代前期(BC4,000年)以降、朝鮮半島から中国東北部から日本の富山県から新潟県県境あたりから三河湾、伊勢湾の境を通して、東をブナやナラのナラ林帯、アッサム、ブータン、ネパールから中国雲南~江南、海を越えて、日本の西半分には、シイ・カシ・ツバキの照葉樹林が優勢で、この地域に育った文化を照葉樹林文化といっています。(BC1000年の縄文晩期には現在より気温が1度低くなりますが、西:照葉樹林、東:ナラ林帯はとどまりました。近世となって木材利用のためのスギ・ヒノキ等針葉樹植林がさかんとなり、植生は変わっていますが、潜在植生は縄文晩期と変わっていません。人工林でも200年放置すると、潜在植生の森に戻るようです。)

[ナラ林文化]
 東にブナ・ナラ林が多く、明るい森でした。冷温落葉広葉樹林で、冬には、落葉し葉っぱが土地に落ちる。その一部は、雨に流されて川にいたる。鮭やマスが大海から川を訪れ、産卵し、育ちゆく稚魚が枯葉の分解した植物プランクトンを食べて大きくなり、海に戻る。人間は、産卵に川に戻ってくる鮭や鱒を捕らえて貴重な蛋白源とした。ブナ・ナラ林にはどんぐりが沢山落ちていました。人間はこれを拾って保存し、あくを抜いて、食用にしました。猪を時には射て、後にブタとして家畜にします。貴重な蛋白源となりました。狩猟採集の人間のほっとする空間は、竪穴住居でした。1メートル程度、円形に土を掘り、柱を数本立てて真ん中を囲炉裏として、家族が団欒しました。数家族が一つのところに集団で住んだことが、青森県の三内丸山遺跡で確認できます。どんぐりや木の実を保存するための縄文式の容器も開発し、線刻や縄文で美しく飾りました。森とすべての生き物に感謝し、精霊が宿るものとして祈り、呪術の対象としての火炎型土器も製作しました。勾玉をつくって首にさげ、のろい除けとし、敬虔な祈りがありましたでしょう。男たちは川では鮭鱒を狙い、野山に狩猟は熊も捕らえたことでしょう。精悍でした。そのDNAは鎌倉武士団となり阪東騎馬軍団として、「東男に京女」の東男となります。縄文土器の精密な装飾のワザは手工業の発展の土台となり、職人集団をつくっていきます。その芸術性は岡本太郎の「太陽の塔」につながつていきます。アワ・キビ・ソバなどを栽培しました。土地柄も寒かったため、塩をつかった保存食が多く、しだいに濃い味となり、なじんでいきます。

[照葉樹林文化]
 西は、シイ・カシ・ツバキ等照葉樹林で、森は暗く、人は住みずらかったようです。人口も全体の1/2の面積に15%の人しか住んでいませんでした。照葉樹林を切り開き、焼き畑農業でエゴマ、ひょうたん、豆、茶、いも等を栽培しました。手間と労力がかかり、輪作で場所を変えていきました。この地域の人口はBC500年頃稲作が伝えられるまでは増えていきませんでした。稲作の人々が加わると、連作可能で保存の容易な米によって栄養が十分となっていき人口が増えていきます。水田の害虫駆除で鯉も一緒に大陸から入ってきます。保存用に豆からは納豆が、穀類と魚でなれずしが作られ今日の寿司につながっています。焼畑の後に茶の木が自然に育ったようで、食べ茶がありました。工芸では、うるしから漆器製作、マユから絹をつくる技法、麹からつぶ酒の醸造がしだいに発達します。高地にはそばが栽培されました。それぞれ照葉樹林のめぐみといえましょう。恋人に歌垣で意志を伝えたりするようになります。後に、貴族から防人(さきもり)や一般の人まで万葉集としてまとめられる素地となりました。また、鵜を使い、魚を取ることもおこなうようになりました。

 照葉樹林文化のセンターはインドのアッサムから中国の雲南を真ん中にした東亜半月弧にあり、照葉樹林に沿って、伝播したとのことです。その東端が日本の西部分にあたり、焼畑から栽培農業をするスタイルの中にみられる独特の文化であるようです。

 縄文時代は今日の文化の淵源をなすDNAとなったと思います。弥生時代(BC300年ころ-AD300年ころ)から大陸や、主に朝鮮半島から渡来人が稲作や先進技術を持って九州経由でやってきます。更にその後の古墳時代、飛鳥・白鳳時代(AD700)朝鮮半島の百済高句麗の滅亡によっても多くの半島からの人々が須恵器や土木・稲作水田・灌漑技術を持って日本へ渡ってきます。縄文後期16万余の人口がほぼ1000年間、年1000人平均の渡来人がやってきたとも試算されていますが、関西、中部、一部は関東に居住し、AD700年には人口、540万人ほどになっていました。結果として縄文直系 1 : 渡来人系3.6 と小山修三氏(1984)によって試算されています。照葉樹林文化の多くは、現在の朝鮮で例えばお寿司・納豆を見ることができないということは、渡来人の影響の受けない、縄文時代からのDNAであったことがわかります。

 環境が植生を生み、植生が人間を育て、生活文化を作る。日本の基層文化は縄文時代につくられた。

 "あらぶる侍の熱気"は、「ブナ林文化」から "みやびの文化" は「照葉樹林文化」から、"生産技術"の優秀性は「ブナ林文化」の緻密にして単純明快と、「照葉樹林文化」のねばりっけの根気よさの合流したもの。歴史をたどれば現在のある角度が見える、と思います。学者の研究成果を読ませていただき、一方的に思い込んだ拙論ですので、斟酌してお読みください。

 ご覧いただきましてありがとうございました。(参考図書 佐々木高明「日本史誕生」上山俊平・佐々木高明・中尾佐助「続・照葉樹林文化」佐々木高明「照葉樹林文化への道」)

2009年12月6日日曜日

(思い込み古代史) 8.ハツクニシラススメラミコト

 歴史を辿る場合のもう一方の文献では、中国の史料のほかに天武天皇の意を受けて、712年、太安万侶(おおのやすまろ)と稗田阿礼(ひえだのあれ)による「古事記」、天武天皇の皇子の舎人親王を総裁とする大事業によって約40年かけて720年に編纂された「日本書紀」があります。武光 誠「古事記・日本書紀を知る事典」によると、古事記・日本書紀は天皇統治を正当化するため編纂された。天皇家の記録といくつもの部族の記憶が都合よく、神話として織り込まれ、豪族の記録の系譜を天皇家の系譜の中にとりこんで統合し、封じ込め一本化したとのことです。

 筆者が高校生のとき、日本史の先生から、「日本書紀」「古事記」にハツクニシラススメラミコトの名のある神武天皇と崇神天皇の内、初代神武天皇は実在しなく、第10代崇神天皇が最初の天皇といわれて、そのまま信じて今日に至っています。初代の天皇、ハツクニシラススメラミコトとは?、そのまぼろしの建国の仮説を作ってみました。

(天孫降臨)日本書紀によるとアマテラスオオミカミがニニギノミコトを「真床御襖(まことおふすま)」という寝具にくるんで、日向の高千穂の峰に下らせたとある。五伴緒(いつとものお)という神々(大王の下の同列のお友達)が従った。古事記では「筑紫の高千穂のクシフルタケ」に降りたとあり、朝鮮南端の加羅の建国神話にも、神の子が紅幅(あかいきれ)につつまれてクシフルに降りた、とある。古事記に「この地は韓国(カラクニ)に向ひ笠沙之御前に真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり、故にこの地ぞ甚吉(いとよ)き地(ところ)」とある。故国伽耶の神話をそのまま持ち込んで、韓国に向かい合う、筑紫に降り来たって、「よきところ」といっていると解釈できるのではないだろうか。

[=騎馬民族説=故江上波夫氏「騎馬民族征服国家説」(中国東北地方にいた扶余の騎馬民族が朝鮮半島を南下し、朝鮮南に拠点をつくり、崇神天皇の時代に九州に進出し、後に応神天皇の頃ヤマトに進出し、諸所の豪族たちと折り合いをつけて現在の天皇家の元になる王国を創ったという説)によれば、「古事記」にハツクニシメス ミマキノ スメラミコトのミマキ(「常陸風土記」御真木、美麻貴、⇒御間城)として御間城に宮のあった場所として朝鮮南部の任那(みまな)を充て、そこを拠点とした大王が北九州に進出したと解釈されている。「旧唐書」で「日本もと小国、倭国の地を併わす」とあるのは、朝鮮南部に本拠があり、後に倭国を合わしたと解釈されている。]

(神武東征説)神武東征の話は初代の大王、神武天皇[初代:60年で循環する干支の辛酉説=重大なことが辛酉年に起こるという説=天武天皇がた大友皇子に勝利した壬申の乱(673年)から天皇系譜をさかのぼりBC660年に初代即位もとめてつくられた天皇](その後の8代は欠史8代といい、在年数が異常に長く実在が疑われている)は実名を磐余彦(イワレヒコ)といった。かれは物部氏の祖神にあたる饒速日命(にぎはやひのみこと)が東方に天下ったという話を日向国で聞いた。そのとき、兄たちに当方も日本の中心地に移ろうといった。そして軍勢を率いて備前国の国神(くにつかみ)の椎根津彦を道案内とした。磐余彦(イワレヒコ)は大阪湾にはいり、難波に上陸し、一気に大和を目指そうとした。幾多の戦いの後、大和に入る。神武東征伝説は、磐余彦(イワレヒコ)の最大の敵を長髄彦(ながつねひこ)とする。長髄彦(ながつねひこ)は奈良盆地西北部の小豪族でもある縄文時代的酋長であった。磐余彦(イワレヒコ)は長髄彦(ながつねひこ)を打ち破り、纏向に入る。

 神武天皇は実在が疑われ、ミマキイリヒコの実名を持つ3世紀から4世紀はじめに実在したとみられる崇神天皇が該当するとされる。

[(大神(おおみわ)神社)「みわ」の語は元来高級な酒を表す言葉であった。「みわ」はなまって「みき」になる。神様に供える酒をお神酒という。よい酒が出来る旨い水の湧く山が「みわ山」であった。「三輪」は当て字である。崇神天皇は纏向の三輪山がよく見える場所を大神(みわ)神社とし、御神体を三輪山として朝廷の祭祀を整えた。伊勢神宮の天照大神信仰が広まるまでは三輪山の神が唯一の「大神」であった。大神神社の祭神は、いまは大物主神とされている。その神は出雲大社の大国主命がかりに姿をあらわしたものといわれる。三輪山の神は古くは「天皇霊」と表記された。]

(仮説)ハツクニシラススメラミコトの系譜を仮説として、組み立ててみました。紀元前300-紀元前100年頃、中国江南地区より先進文明をもつ人々が九州にわたってきて、稲作を伝え、クニを作った。その頃断続的に、朝鮮半島人々稲作文明を持って北九州にやってきた。紀元前後、奴国が北九州に勢力をつくっていた。中国にも使いをだした。小さな環濠を武具でもって武人の守るクニグニが九州から、本州に乱立していた。100年代、倭国は戦乱の世だった。2~3世紀にかけてのある時期に中国東北部の扶余に源を持つ、騎馬民族の集団が高句麗を経由して朝鮮南端の伽耶に勢力を蓄え、その一団が青銅・鉄文明に武装して海を越え、馬を連れて北九州にわたってきた。先進的な兵器と騎馬軍団で周囲のクニグニを圧倒していった。既存のクニを征服したり、話し合って和解したりして、吉備地区に移動した。出雲王国とも折り合いをつけて、しだいに勢力を大きくして、3世紀ころ、大和の豪族たちと戦い、勝利してヤマト巻向に拠点を創っていった。大神(オオミワ)神社をつくり、天皇家の元をつくった。

 以上の過程に、邪馬台国が、九州またはヤマトの敵対して征服されるクニとして、または、母体として存在した。ハツクニシラススメラミコトは、ヤマトに制覇した勢力のエポックを画する大王であった。制覇した人達の記憶や記録と連合を結んだ豪族の記憶はきれぎれとなってパッチワークのように大王家中心の古事記や日本書紀にまとめられていった。それぞれの豪族の記憶は塗り替えられ、天皇(スメラミコト)の専制性の日本が、7世紀の終りに天武天皇の下に確立されることとなる。以降の稿で順順に、解きほぐして辿っていきたいと思っています。以上は、あくまで断片的な知識の集積とある種、高松塚古墳の壁画等を見ての思い込みの仮説ですので、真偽の程を問うものではありません。割り引いて自由にご考察ください。(参考図書 江上波夫「騎馬民族国家」 新人物往来社「必携古代史ハンドブック」 武光 誠「古事記・日本書紀を知る事典」)

2009年11月28日土曜日

(思い込み古代史) 7.纏向(まきむく)遺跡



 3世紀ごろの歴史を辿る場合、前項で見た中国の「魏志倭人伝」等の文献と物証とにたよることとなります。

 3世紀の物証としては各地の古墳が時代の勢力の示唆とともに前方後円墳に修練されていきます。大王が眠る場所として、有力な仮説を提供してくれます、古く(250年ころか)大きな(全長280メートル、後円部径150メートル、同高29.4メートル、前方部巾128メートル、同高さ16メートル)箸墓古墳など6つの古墳が北にある1km2に及ぶ奈良県桜井市纏向(まきむく)遺跡は6つの集落と交易手段をうかがわせる水路跡と最近マスコミで取り上げられた4つの東西に連なる宮殿跡(藤原京以降の宮殿は中国にならって南北に展開、東西軸は日本古来、最近発掘された建物跡は238mm2=出雲大社と構造が似て、真ん中に柱があり、人々がお参りするような現在の神社風に開けていず、人が建物の中に、こもって祭祀をしているような祈祷施設か?=)が発見されています、注目の地域です。ここに都市的なものがあつたと思わざるをえないでしょう。3世紀の半ばといわれる箸墓古墳は陵墓参考地(王家出身の巫女、倭迹日百襲姫(ヤマトトトヒメ))ですが、宮内庁が管理上で発見された埴輪が吉備地方がもとの器台と穴あき埴輪壺です。この埴輪は山陰の古墳でもみられます。巨大な前方後円墳のひろまりの元として、大和政権の王の墓として位置づけられましょう。大塚初重明治大学名誉教授によると吉備、出雲、播磨、大和の酋長が婚姻関係を結び、連合体が形成されていたと解釈されています。それをつなぐのが古墳から発掘された、埴輪だそうです。箸墓古墳の前哨段階の方墳が八塚、石塚古墳であると想定されています。石塚古墳で220年頃と想定されます。 上図は武光 誠「一冊でつかむ天皇と古代信仰」より借用しました。縄文時代の何者にも生命が宿るという精霊信仰は、その素地を残しながら、弥生時代以降、祖霊信仰に移行していき、各々を残しながらも古墳時代にはいると信仰の対象が地域を支配する首長の古墳=首長霊信仰=になっていきます。


 全国的に見て、墳丘墓から、纏向の箸墓古墳が前方後円墳へ突如巨大化し、大きな権力を示していることが、設楽博編「三国志がみた倭人たち」の右図によって理解できます。横軸に北九州、四国、山陰、岡山、大阪・奈良(箸墓が最大)、北陸、東海、千葉となっており縦軸の最下段が250-300年です。

 前方後円墳は紀元前後に朝鮮高句麗に先例があることが、同志社大学の森浩二氏、亡くなられた江上波夫氏、NHK取材班で調査されています。石塚、箸墓の前方後円墳と高句麗がどこでどのようにつながっていたのでしょうか。一説によると、前方後円墳の形は鏡を上から見た姿というのがありました。前項でとりあげた魏志倭人伝によると250年の少し前ころ、邪馬台国の卑弥呼が亡くなり、百余歩径(1.4㍍x100径)の冢をつくったとなっています。箸墓前方後円墳だとすると、後円墳の径160メートルと近値となります。その後の天皇家の確立とどのような繋がりがあるのでしょうか。陵墓参考地として発掘調査できないわけですから謎は謎のままです。

 では「日本書紀」や「古事記」の日本神話の伝承では、天皇家の成立をどのように告げているのでしょうか?次回とりあげたいと考えています。(参考した図書など:新人物往来社「必携古代史ハンドブック」 武光 誠「一冊でつかむ天皇と古代信仰」設楽博編「三国志がみた倭人たち」森浩一/NHK取材班「騎馬民族の道はるか」09.11月11日朝日新聞 他)

2009年11月21日土曜日

(思い込み古代史) 6.邪馬台国

[道のり]
 中国の3世紀の記録を晋につかえた陳寿が著した「魏志」の東夷伝中の「倭人」の条によれば、邪馬台国が女王卑弥呼を擁し、30ケ国を統轄、南にある男子の王としていた狗奴(くな)国と対立していた。魏の朝鮮に置いた帯方郡(現在のピョンヤン南または南西50kmあたり他特定されていない)から7000余里で北岸の狗邪(くや)韓国に至るとある。これは朝鮮の最南端にあると見てよい。
1. “始渡一海千余里至対馬国”“有千余戸”、現在の対馬列島にあたる。
2. “又南渡一海千余里至一大国”“有三千許家”“有田地、耕田猶不足食、又南北市糴”壱岐のことであろう。田を耕すも食べるに十分でなく南北に市があるといってい
3. “又渡一海千余里至末盧国有四千余戸”九州に渡ってきたとみてよいようだ。末盧国は、山に海に面し、草木も繁り、魚をよく取り、海は遠浅で皆、潜って魚類を取っている、と書かれている。[壱岐の南の、現在の東松浦(まつらという名で部分が共通する)半島の唐津あたりと考えられている。]
4. “東南陸行五百里到伊都国”“有千余戸”“皆統属女王国” 皆女王国に属している。“郡使往来常所駐”邪馬台国の郡使が常駐している。[福岡の西の糸島半島の前原市あたり]
5. “東南至奴国百里”江戸時代に九州志賀島で金印出土したことで有名な奴国“有二萬余戸”大きなクニだったようだ。[博多のある位置
6. “東行至不弥国百里”“有千余家”[博多の東北より約20kmのところ
7. “南至投馬国水行二十日”“可五萬余戸”そしていよいよ
8. “南至邪馬台国女王之所都”“水行十日、陸行一月”“可七萬余戸”につく。
南に狗奴国があり、男子を王とし、従わず。女王国の北の国々は戸数や道のりをほぼ記すことができるが、それ以外の方向につななる国々は遠すぎて詳細を知ることが出来ない。女王国のさらにむこうには、斯馬国、已百支国、伊邪国、都支国、弥奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、対蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国がある。以上21国と先述の朝鮮半島1国、邪馬台国含めて8国、しめて合計30国となる。

[何処にあつたか]女王国は大海の中のぐるっと巡れば、周囲5千余里の列島で、(中国揚子江下流南の)会稽郡や東冶郡の東海上にあつたであろう。邪馬台国は、帯方郡から12.000里のところにある。女王国の更に東に1千余里の海を渡ると、別の国々があり、倭と同種の人々が住む。さらに南は侏儒国(身の丈3,4尺)、女王国から4千余里の距離にある。裸国、黒歯国はさらに東南、船で1年の航海をしていきつく。

(九州説左図下の部分ご参照)末盧国⇒東南陸行五百里到伊都国[邪馬台国の郡使がいた重要拠点]からは、シリーズ(連続)に読むのでなく、伊都国から東南至奴国百里、伊都国から東行至不弥国百里、伊都国から南至投馬国水行二十日、伊都国から南至邪馬台国女王之所都”“水行では十日、陸行では一月と読む説が現われた。それに従うと、邪馬台国は九州内に納まる。宮殿跡として北九州の佐賀、吉野ヶ里遺跡もあるがまとまりがなく、鏡出土に今ひとつ迫力にかけ物的証拠が弱いという欠点があります。後に盲目となった亡き島原鉄道経営者宮崎康平氏は「まぼろしの邪馬台国」で、一つ一つのクニの場所を特定しながら島原あたりが邪馬台国だろうといっておられた。別途帯方郡から邪馬台国まで12,000里とあるので、朝鮮南端の狗邪韓国まで7,000余里だから、狗邪韓国から対馬、壱岐、九州まで計3,000里の海を越えると差引2000里のところに邪馬台国があったことになり北九州となる。行程記載を信ずれば九州説が理解できます。仮に男王を有する南の狗奴国を熊襲となります。

(大和説)伊都国(邪馬台国の郡吏がいる)から、東南百里で奴国、東行百里で不弥国、日本が現在のように西から東にあると理解せず、南に列島がつらなっていたと3世紀の中国の人が考えていたとすれば、南(⇒東)水行20日投馬国(出雲または吉備)、南(⇒東)水行10日(若狭湾あたりまたは大阪か)陸行1月で邪馬台国(大和)に至る。南に敵対する男王を有する狗奴(くな)国主とはイセであろうか。主に考古学の成果を持って判断すると、後述の魏王から拝領した鏡100面が近畿地方の古墳からよく出土していることや、その後のヤマトの支配者の君臨からすると理解しやすくなる。さらにヤマトでも巻向とすると09年11月のマスコミ報道で、日本の広い地域からの土器が出土していること、東西軸に4棟の建物があったと伝えられた(3世紀の建物と特定できるかが焦点、周辺溝の発見土器が3世紀という傍証によるが)ことから、邪馬台国ヤマト説が有力となります。しかし、東に1千余里の海を渡ると倭種の国々があると記述されていますが、大和は山間の地で海は遠く、この点がいかがでしょうか。また、海の東とは東海地方のことを指したのでしょうか。南は侏儒国、東南の船で1年の裸国、黒歯国はフィリッピンあたりをさしているのでしょうか!?ヤマトに邪馬台国があつたとすると、人々から怖れられている一大卒(重要監察署で郡使)を伊都国(九州唐津)に置くという、当時として距離があまりにも離れていないでしょうか。(九州説では理解しやすい)


 卑弥呼がなくなって後100人の従者を従えて百余歩径の塚にほおむられたという。1歩は当時1.4メートルとすれば140メートル強の径となる。古代史家のある人々は奈良桜井市の陵墓参考地の箸墓古墳を卑弥呼の墓と擬する。魏王から100面の鏡をうけとったということであり、出土3600面中の500面(1/7)が三角縁神獣鏡(中国では発掘されていないが年号記名の景初3年=239=卑弥呼が魏に使者貢物を派遣して、正始元年=240=銅鏡を受け取った年 のある鏡が含まれる)で、大和近辺に大量に出土する古墳(椿井大塚山=京都府山城町=32面、黒塚=奈良県天理市=33面)がある。ヤマト説の場合の敵対する狗奴国は伊勢湾近辺にになります。

 はて、さてもさても、邪馬台国は何処にあったのでしょうか?

[風俗・風習]“男子皆鯨面文身”入れ墨をしていた。初めは恐ろしい魚に対しての威嚇であったようだが、最後には飾りとなっていた。尊卑による区別がある。朱や丹を身体にぬる。その風俗は質素である。男子は植物で作った鉢巻をし、着物は幅広い布をただ結び合わせるだけで縫わない。女性はざんばら髪で一部をたばねて髷を結い、着物は貫頭衣であった。誰もがはだしである。男性は4-5人の妻をもち、下戸でも2-3人の妻を持つ。婦人たちの身持ちはよい。嫉妬せず、盗みはせず、訴訟沙汰もすくない。法を犯すものがいると、妻子を没収され、思い場合、一門全体が根絶やしされる。人々は生まれつき酒が好きである。下戸のものが道で大人に会うと、後すざりして草の中にはいり、言葉を伝えたり、説明したりする時は、うずくまったり、ひざまづいたりして両手を地につき、大人に対する恭敬を表す。答えるときは「噫」といい、中国で言う、承知しましたというのと似ている。

[耕作物]イネや麻を植え、蚕をかってそれを糸で紡ぎ目の細かい麻や絹を産出する。

[動物]牛・馬・トラ・ヒョウ・羊・かさざぎはいない。大ざる、黒雉がいる。

[兵器]“兵矛楯木弓”木弓は下が短くて上が長く(銅鐸で確認できる。)竹に鉄製や骨性の鏃(やじり)をつけている。

[住居]ちゃんとした家に住み、父母兄弟で寝間や居室を別にする。

[飲食]飲食にはたかつきを使い、手づかみで食べる。夏冬とも生野菜を食べる。しょうが、橘、山椒、みょうがなど取れるのに食べるものとは知らない。

[産物]真珠や青玉を産する。山地に丹を産する。木材として楠・とちの木・やまぐわなどを産し、竹には篠竹他がある。

[市場]地方の物産の交易がおこなわれている。

[租税倉庫]租税や賦役が課せられ、租税を納める倉庫がある。

[一大卒]女王国の北の地域には一大卒がおかれ、国々を監視し、国々はそれを恐れている。一大卒は伊都国に役所を置き中国の刺史のような権威を持っている。倭王が魏国へあるいは魏の朝鮮の出先機関の帯方郡に贈り物を送ったり、帯方郡から魏の使者が到着すると、女王の下に誤り無くその詳細を伝えるため、厳重にチェックをおこなう。

[暦]正月とかの考えは無く、春の耕作と秋の収穫で年を数えている。

[女王と居館]7-80年も争いがたえなかったが、卑弥呼を女王として後、国々は治まっていった。鬼神崇拝の祭祀者として人々の心をつかんでいった。彼女はかなりの年齢に達していた。王位について以来、目通りしたものはほとんどいない。千人の侍女を侍らせ、男子がただひとりいて、食事を給したり、女王の言葉を伝達したりした。起居するのは宮室や楼観の中でまわりは城壁や柵が厳しくめぐらされ、兵器をもったものが四六時中、警護に当たった。

[親魏倭王]景初2年(238)6月、倭の女王は魏王に貢物をすべく、帯方郡に太夫の難升米(なしめ)を派遣、帯方郡太守は役人と兵士をつけて倭使を魏の都に案内させた。「親魏倭王の卑弥呼に詔す。汝の献上物、男の奴隷4人、女の奴隷6人、班布2匹2丈をはるかな遠い地にもかかわらず、使者とともによこした。忠孝の情に心動かされた。汝に親魏倭王とし、金印紫綬を仮授する。」と多くの贈り物と一緒に刀2ふり、銅鏡100枚を、魏の徳を汝の国の人々に広くしらしめよ、とし、目録ともに授かった。正始元年(240)帯方太守は使いを倭国に派遣し、印綬をたずさえ詔書と金銀鏡刀他を与えた。

[占い]何かことがおこると、また特別なことをすると、骨を焼いてト(ぼく)し、吉凶を占う。

[女王の墓]卑弥呼が死ぬと大規模な冢(つか)が築かれた。その径、百余歩(140メートル強)奴婢百人以上が殉葬された。

「魏志倭人伝」を原文、翻訳文とも項目ごとに記載内容を前後してまとめて記載しました。

[今を去るサラリーマン時代、九州出身の上司の押す、九州説に感化され、また畏友富田 弘氏の熱弁をふるうヤマト説にも小生は、答えることもできませんでした。にわか思い込み古代史ファンの小生は、09.10月までは魏志倭人伝の文言を読むほどに九州説、11月以降、マスコミ報道に後押しをされて前方後円墳の歴史的配置や出土鏡等、考古学の本で物証を求めると、ヤマト説になってきました。いずれにしても、古代史最大のロマンです。]
(参考図書 宮崎康平「まぼろしの邪馬台国」、設楽博己編「三国志がみた倭人たち」他)

2009年11月15日日曜日

(思い込み古代史) 5.出雲王国

 弥生時代後期、2世紀半ばに出雲に王国がてきていました。紀元前後あたり、出雲地区には北九州から海路、陸路をとおって移動してきた農耕技術をもった人達や直接、半島から日本海を渡ってきた渡来人たちが小規模のムラを作って稲作を展開していました。精霊崇拝の縄文人も混血しながら合流したことでしょう。しだいにムラムラは農耕祭祀の中心に刀をあがめるようになりました。出雲の国々を統轄する王が出て島根県斐川町の荒神谷で祭祀を行ったのでしょう、同谷丘陵斜面の地中に丁寧に4列、358本の銅剣と近くに銅鐸6ケ、銅矛16本をうずめたのが1984~5年に発掘されました。出雲地区には銅剣と同数の358の神社があったとみられています。邪馬台国より約30年前のことでした。

 出雲神社を造りますが、16丈(48メートル)の社であったいわれています。有力者は高句麗に原形のあります四隅突出型の墳墓を作ります。

 後のヤマトの勢力は出雲より国譲りをせまり、4世紀半ば、ヤマト政権は出雲を傘下におくようになります。前方後方墳であった古墳も、その後はヤマトの影響を受けて前方後円墳となっていきます。ヤマトの祖霊祭祀の対象は鏡でした。やがてヤマト王権の即位の象徴を3種の神器として、ヤマトの鏡、イズモの剣、(イセ?の)勾玉と、勢力を統合をした象徴としていきます。


 ヤマトの古墳の周りを囲む埴輪の特殊基台は吉備で発祥したものであり、図のような出雲・吉備・ヤマトの一連のつながりが見えるのも興味深いことです。09年11月の朝日新聞報道で、卑弥呼の宮殿跡か?とセンセーショナルな報道のありました。奈良県桜井市巻向に3世紀の巨大神殿跡と想定される建物群が発掘されていますが、その内の一つが出雲大社の構造と似ているとの文言があったと記憶しています。古代史を揺るがしかねない発見であったと思われます。

 邪馬台国はどこにあったか、古代史最大の謎を次回以降にとりあげる予定です。(図は大塚初重・吉村武彦「必携古代史ハンドブック」)(参考図書 竹光 誠著「一冊でつかむ天皇と古代信仰」)

2009年11月6日金曜日

(思い込み古代史) 4.弥生人の生活

 
 紀元前300年ころから紀元後2-300年ころを弥生時代といわれています。東京都文京区弥生2丁目から出土した無紋壺型土器の普及する時代を弥生時代といい、大陸ルートから主として朝鮮半島から、稲作・青銅器・鉄器文明が渡来人と共に入ってきました。弥生人の顔は面長一重まぶたで、縄文人の四角、ひげが濃い人々と違っています。図は埴原和郎「日本人の顔」より拝借しました。弥生土器は、質実で、機能本位でした。保存する、煮炊きする、食物をのせる、水。湯をそそぐ、・・・・縄文時代は土器にさまざまな祈りを込めました。弥生時代は器をさまざまな機能としてのみとらえ、祈りは銅製品の銅鐸、銅剣、銅矛や銅鏡や鉄剣という大陸・半島渡来のものに移っていきました。 


 食料を自分達で作れるようになり、一定の土地に定着していきます。北九州に入ってきた渡来人たちは、既住の縄文人と混血しながら、東へ陸路と海路より稲作文明を携えて日本列島の北の端まで、驚くべきスピードで伝播していきます。稲作は、水利、田植え、刈り取りといった共同作業が発生するため、集団で住み、差配するものが出て、貧富の差ができてきます。集団の人々はムラを形成し、他のムラとの争いも発生し、外敵侵入防止のため堀をもうけるようになります。紀元後57年九州北部に「奴国」があったころ100余国にわかれていたといわれ、「後漢書」東夷伝によると紀元後147年から189年の間、「倭国大いに乱れ」とあります。
 

 3世紀、「魏志倭人伝」による邪馬台国は、みはり小屋があり、卑弥呼が呪術的権威で30ケ国の上にたち、男子が補佐し治めていたと記されています。また、刺青をして、よく水没して魚を取るともあります。刺青については、縄文時代の発掘された土器で全国にひろがっていたことを確認できますし、水没して魚に対する際の魔よけと考えられます。紀元前の中国南部の越でも入れ墨をしていたという「史記」「越世家」の記録(BC5-6世紀ごろ越王こうせん、文身断髪し、雑草をひらきて邑をつくる=文身=入れ墨)が残っています。佐賀県の吉野ヶ里遺跡では、環濠集落を形成し、周囲を濠でかこみ、広いところで巾、6.5メートル、深さ3メートルもあります。物見やぐら(図参照)もありました。静岡県の環濠遺跡では、何重も堀をつくり、一番外の堀には逆茂木をおいていました。稲作の定期的な収穫で、豊かになったのですが、水利などのことにより争いが、たえなくなったことは皮肉なことです。このころに、もし住んでいれば、大変緊張した人生をおくった事でしょう。でも、食生活は結構豊かとなり、縄文時代食事に主食のご飯に家畜となったブタが加わり、お箸が発掘されていませんので、(朝鮮式の食べ方 茶碗を持たずに食台において箸等を動かして食べる)食器にごはん(おこわ・・・アズキが食されたいました。)、おかず(マメ類、南京、大根、いも類、豚肉や、冬場は鮒ズシもあったと思います。)がのり、手でとって口に運び、熱い物はスプーンを使ったものと思われます。着るものはカラムシやタイマによって織られた貫頭衣でアクセサリーは貝や、地位の高い人達は勾玉やヒスイでネックレス等をしていたことでしょう。住は縦穴式で1㍍ほど地面を掘り下げ、まわりをすこし高くして水の浸入を防ぎ、屋根は萱やヨシで屋根を葺き、真ん中にいろりがあった1LDKでしょう。魚の干物はつりさげて保存していたでしょう。お米は高床式の倉庫を造って保存していましたし、クリやどんぐりやトチの木の実を地下に埋めて保管していました。

 次回は出雲王国、次次回は邪馬台国と更に弥生時代の探索を続けていきたいと思っています。

(参考図書 人物往来社「日本史」 金達寿「渡来人と渡来文化」 藤堂明保「中国名言集(上)」 大塚和重 吉村武彦「必携古代史ハンドブック」 大塚和重「弥生時代の時間」)

2009年11月1日日曜日

「思い込み古代史」 3.縄文時代の衣食と住


 1879年、E.S.モースが大森貝塚を発見した際、出土した土器に世界でも類例の無い縄目模様が入っていたことで、(cord marked pottery)と名づけ、縄文土器と称するようになった。縄文土器が発掘されたBC10,000年からBC300年を縄文時代という。 

(衣)植物の繊維で布を織り、衣服を作っていたが、寒い時期は動物の皮を人間の歯でなめして衣服としていた。そのため、歯は道具の一つとなり歯は極端に磨耗していた。 


(食)食は、採集でドングリ、トチ・栗の実くるみや、クズ、ワラビ、ヤマイモ等のいも類、狩猟は、鹿、猪などであった。漁労では鮭、鱈、コチ、ハモ、クロダイ等魚類や貝類であった。
<中国大陸東北部、朝鮮半島から列島中央以北のコナラやブナの落葉広葉樹帯をナラ林文化圏>ドングリは深鉢の縄文土器により、列島中央以北は、あく抜きを煮炊きによっていました。
<シイ、カシ等常緑照葉樹帯は東南アジアや中国雲南から長江下流域から列島中央部以西を照葉樹林文化圏> 列島中央以西では、どんぐりは水でさらしていました。なれずしや、鵜飼、納豆、歌垣の照葉樹林文化の芽生えがこのころにあったのでしょうか。(これらは朝鮮半島ではみられませんでした。)(図は佐々木高明「日本史誕生」より)
 不思議に思うことは、時代が下た江戸時代の一般庶民のほうが、縄文人より栄養状態が悪かったことです。歯のエナメル質の形成が江戸時代の庶民より、縄文人の方がよく形成されていたというデーターがあります。江戸時代は平均寿命30歳くらいだったようですから、
縄文時代はもう少し長生きでしたでしょうか?福井県の鳥浜縄文人の生活は発掘されたものから図(池田次郎「日本人の起源」より)のようなものであったと想定されています。春夏秋は魚の季節、春は山菜取り、秋は木の実取り、冬に向けて貯蔵し、冬は狩の季節だった。案外、快適であったようです。花粉分析によると、BC4,500年ごろ、温暖化し、この地域ではブナ等の落葉広葉樹からしだいにシイ・カシの照葉樹やスギの花粉が増えてきたとのことでした。照葉樹林帯は焼畑で、二次林が生育し、ひょうたんやリョクトウ、エゴマやシソが栽培されていました。

(住)保存用の縄文式土器が作られて、BC9000~8000年頃から定住をはじめており、縦穴式住居に住み、最初は数戸からしだいに戸数を増やし、20戸くらいでムラをつくっていました。

(祈り)発掘された土偶は破損されていて、女性をイメージされ、粉砕して埋められていました。貝塚も捨てられた貝や骨などは、単にゴミとして捨てられたのではなく、土偶も共に、再生して欲しいという祈りがあったのではないでしょうか。

世界でも珍しい縄目を利用した装飾土器は呪術の対象ともなる土器も作っていました。火炎型土器や踊る精霊を描いたと思える土器が発見されています。縄文人の根底には、精霊に対する祈り、それらが描かれた土器等のものへの執着と再生への祈りの心が芽生えていたと思われます。青森県にあった三内丸山遺跡では共同で集落を営んでいたことがわかっています。
(差別化はじまる)縄文晩期には、歯を抜く風習が見られます。広く中国でもあったようですが、歯の抜き方で地位をあらわしていると学者は指摘しています。共同生活によって支配するものと支配されるものが分化してきます。
縄文人の歯は木の実をすりつぶして食べていたので磨耗が激しかったことが知られています。現在のように前歯の上下が前後に交合せず、向かい合っていました。
やがて、稲作技術をもった渡来人が日本列島にやってきて縄文人と混血しながら西から東へ定着していきます。[約1万年も続いた縄文時代は、土器の開発により定住が可能となり、狩猟・漁労・採集で比較的、豊かで静かな平和な時代であったようです。列島中央以西地域の照葉樹林帯では今につながる、なれずしや納豆、歌垣が中国大陸南部地方からもたらされたと想定されます。以降に稲作文明が登場しますが、支配と被支配の社会に変容していきます。]
 (参考図書 佐々木高明「日本史誕生」、池田次郎「日本人の起源」、埴原和郎「日本人の骨とルーツ」土器イラストは関係HPより借用しました。BLOG上からお礼申し上げます。)

2009年10月24日土曜日

「思い込み古代史」2.日本にどこから人はやってきたのでしょうか?


 中国南部を含む東南アジアに生存していた古モンゴロイド人が島嶼づたいにも、中国大陸を北上し陸続きの日本列島へ南から九州へも、シベリア方面から北海道へもやってきました。(図 池田次郎「日本人の起源」参照ください。)タミール古語に57577の和歌の形式があることによって、日本語はタミール古語に起源があると大野晋氏が発表しています。更に古くは、東南アジアへはインドから移動したのかもしれません。

 旧石器時代から縄文時代草期には小山修三氏の遺跡等からの人口試算によると約2万人住んでいたことになりますが、近畿以西では約3,000人弱(15%)となります。縄文時代を通じて15-25万人の人が住んでいたとのことですが、縄文晩期には7万6千人が住んでいたと試算されています。ちなみに近畿以西には約11,000人(15%)です。近畿以西の人口比率は15%程度で縄文時代を通じて、変わらなかったことになります。(ちなみに縄文時代の区分は草創期BC10000-8000年、早期BC8000-4000年、前期BC4000-3000年、中期BC3000-BC2000年、後期BC2000-BC1000年、晩期BC1000-BC300年)

 BC4500年頃、気温が現代より2度ほど上昇し(その後しだいに下がっていきます。)、海水面も現在より2~3メートルも上昇していたとされる。(その後しだいに低下していきます。)本州の中央部以北は針葉樹林が北へ移動し南にあった落葉広葉樹林が北上してきて、ブナ・ナラ林のどんぐりが豊富でした。また、鮭、鱒の漁獲にも恵まれ北の地域に人々が多く住んでいました。本州中央部より南はシイ・カシ照葉樹林でした。人口は食環境に影響されます。狩猟採集による移動中心から食糧を保存するワザを開発して、しだいに定着へ向かっていきます。時代がBC500-BC300年頃になると大陸で稲作が開発されて大陸から朝鮮半島へ、更に、弥生時代(BC300ころ-)、本格的に、朝鮮半島から稲作文明を持った人々が移住してきます。これらの人々は新モンゴロイドといわれる東北アジア人です。縄文人は四角な顔で眉が濃いのですが、弥生人の顔は面長で一重まぶた、まゆはそれほど濃くはありません。寒冷仕様といった顔の骨がそなわっていました。食糧が安定的に確保されるようにより、弥生時代(BC300-AD300年ころ)の人口は約60万人となり、近畿以西は約30万人で50%を占めるに至りました。森を切り開き、稲作用の田んぼにして、人々は一定の土地に定着していきました。弥生時代の終りには、発掘頭骨の調査により当時の日本人は弥生人が7:縄文人が3の比率になっていたと推計されています。旧モンゴロイドの縄文人は新モンゴロイドの弥生人と混血しつつ弥生人に吸収され、混血をしない旧モンゴロイドの縄文人は、北と南に押しやられていきました。北はアイヌとして、南は熊襲として現在その痕跡が見られます。

 故鳥越憲三郎氏は揚子江下流から中国南部にした「倭族」が紀元前10世紀以降に中国沿岸部を北上し、山東半島から朝鮮南部に住み着き、日本に渡ってきたといっておられます。神社の原形も東南アジアにあるとのことです。古日本語は仮にタミール語~タイ等を含む東南アジア語であったとしても、半島からきた人々は古代朝鮮語を話したはずですから、古日本語に古代朝鮮語が交じり合ってきたのではないでしょうか。

 [日本人はどこからきたのでしょうか?時代と共に次のようにやってきたと思われます。BC3-1万年頃、東南アジアから古モンゴロイドが大陸づたいに北と南から、また島嶼づたいでも日本にやってきた。縄文時代の人口は約5-25万人と推計されている。BC5-3世紀ごろから新モンゴロイドが半島から九州に稲作文明を持つて渡来してきた。稲作文明は人と共に東へ、中国地方、近畿、東海、関東に移動していった。弥生時代の終りには食糧事情好転で人口は約60万人と急増し比率は弥生人7:縄文人3となっていた。](参考図書文春文庫「エッセイで楽しむ日本の歴史(上)」 鳥越憲三郎「古代朝鮮と倭族」 池田次郎「日本人の起源」佐々木高明「日本史誕生」他)

2009年10月17日土曜日

歴史を辿るエッセー(上)「思い込み古代史」はじめに 1. 日本にいつごろから人が住みはじめたのでしょうか?

はじめに

 中国、朝鮮を勉強するうちに、日本の古代に興味をもつようになって、関連する本を読んでいます。日本にはいつごろから人が住み始め、その人たちはどこから来たのたのでしょうか?縄文時代の人々はどのような生活をしていたのでしょうか?稲作技術をもってきた弥生人の生活はどうであったのでしょうか?「後漢書」によりますと1-2世紀倭国は乱れるとありますがどうであったでしょうか?「魏志倭人伝」に登場する邪馬台国は何処にあったのでしょうか最大の疑問です。そして、大和に展開された纏向(まきむく)遺跡の意味するものは?倭の五王と古代朝鮮の関係、巨大な堺の古墳の意味、継体天皇の継体とはどのような“体”を継いだのでしょうか。6-7世紀大和朝廷の成立の過程は、「大化改新」「壬申の乱」とぎくしゃくしますが、その実相は?天皇の権力が如何に作られていったのでしょうか。縄文時代からの精霊信仰(アミニズム)がどのように残り、また変容していったのでしょうか。仏教の受容の動向は? 少し飛躍しますが、日本のきめ細やかな「もののあわれの文化」、微細技術の伝統や「もったいない」の思想の原点は奈良時代までの古代の歴史に痕跡があるのでしょうか。

 順を追って粗い読書による先達の知識の収集と近場の博物館通いからの雑駁な知識で(上)として奈良時代までを1週間に1回づつで17回掲載していきます。平安時代以降は(中)(下)として勉強しつつ準備していきます。

1. 日本にいつごろから人が住みはじめたのでしょうか?
・ ウルム氷期の極相期、日本は大陸とほぼつながっていた
200万年前にはじまった氷河期の中の最終氷期が約7万年前に始まり、約1万年前に終わっています。日本にいつごろから人が住みはじめたのでしょうか?12万年前の島根県出雲市の地層から旧石器とみられる長さ5~1.5cmの石片が発見されたという報道が09年9月、朝日新聞であった。しかし、人工品かどうかの判定には資料が少ないとのコメントが識者によりなされていた。
一般的には、旧石器時代の黒曜石の石器が群馬県岩宿で発見されています。3万年以前にに人が住んでいたと考えられる。豊橋市牛川町、静岡県三ヶ日町、同県浜北市でも一部の骨が発見されているが、身長男性150cm女性134cmと背の低いピグミー的な人達であった。

 ウルム氷期の極相期の約2万年前頃、気温が現在より6-7度低いと仮定して、海水は現在より110-120m低かった。大陸とほぼつながっていたと考えられる。北と南から中国雲南から東南アジアにいた古モンゴロイド人が日本に渡ってきた。ウルム氷期の極相期が過ぎると、海面上昇により日本はしだいに大陸ときり離された列島になっていく。日本人の痕跡としては沖縄の港川原人の16000~18000年前ころの骨が見つかっている。顔の骨から四角型あごの骨の張った人が図のように復元されている。(埴原和郎「日本人の顔」より)身長は男性156cm女性144cmであったと推定されています。川や海から漁労し原生林の中より動物を狩猟し木の実等を採取して生活していたものと想像されます。[約4万年前頃から人が生息していた可能性があります。極寒な環境で生き抜くことが困難だったでしょう。]
(参考図書 池田次郎「日本人の起源」、埴原和郎「日本人の骨とルーツ」他)

2009年9月25日金曜日

「東アジアの宗教と思想」-仏教からイスラムを見る-東大寺 森本公誠長老の講義を関大で受けました。

 渋沢栄一記念財団関西大学寄附講座第1回を「東アジアの宗教と思想」-仏教からイスラムを見る-東大寺 森本公誠長老の講義を9.24(木)に受けました。この講座は概ね毎木曜日14回にわたり、1月14日まで関西大学で開催されます。「」イスラム教とはどんな宗教かという観点で受講しました。以下はその要旨です。

1. イスラム教信徒は世界で13億人(キリスト教徒20億人、仏教徒3億数千万人)
2. イスラム教は、キリスト教とともに唯一神を信ずる。
3. ムハンマド(570年ころ-632年)は40過ぎより、神のお告げを聞き、人々に伝えた。その内容が「コーラン」
4. 当時、商業での詐欺がはやっていたが、これを戒める言葉がある。神に祈っている間は商売を離れなさい、祈りが終われば、正しい商売に打ち込みなさい、と。
5. 正しい戦いはしてもよいが、戦利品の1/5は神、貧しい人達に権利がある。・・・よいことがおこると思って信者が増えていった。
6. 戦いで信者が人を殺すのは、神が殺しているのだ。
7. 来世観:最後の審判の日・・・いつくるかはわからない・・の後に人間は、一度きりの人生の帳簿(誰のものも作られている)により、黒字・・・平和な永続する生、赤字・・・苦しみの続く煉獄、がある。
8. 6信:神(アッラー)、啓典、預言者、天使(アッラーの命で動く)、来世(審判の日、死後の生命)、神の定め(天命)
9. 5行:信仰告白「アッラー以外に神なし、マホメットは神の使徒」、礼拝、喜捨、断食、巡礼。

 世界観は仏教が円または球(慈悲の心、空の思想、縁起の考え)とすれば、イスラム教は三角(神の唯一帰一、独自の法、固有の共同体観)とのことです。

 国連総会における核処理の正当性を訴えるイラン大統領の主張も、イスラム教理からすれば、絶対的なもので後に引かないと思えます。融通無碍の仏教世界観の日本が説得する道はあるのでしょうか。尚、上記講義抄録誤りがあるかもしれませんので、割り引いてお読みくだされば幸いです。(WELL BE)

2009年9月8日火曜日

映画「南極料理人」観ました。=大いに笑いました。=

 テアトル梅田で 沖田修一監督「南極料理人」を観て、大いに笑いました。

 物語は南極観測隊員8名の料理をつくる主人公(堺 雅人)を取り巻く日々こもごもの物語でした。零下50度にも達する南極大陸の基地の気候では、ペンギンももオットセイも生き物自体がいません。ウイルスも死んでしまいます。

 人間単調な中にいると、つまるところ食事が唯一の楽しみとなるようです。8名の一人一人は決して「おいしい」との言葉は発しません。たべっぷりをみて、おいしいんだなあ、と理解します。この映画を観て、料理をつくる楽しみを感じました。食べることの出来る幸せも理解できました。家庭では、妻との共同料理人(?)となっていますので、今後も料理作りの作業者として励みたいと思いました。

 ラーメンをおいしそうに食べているのを観て、ラーメンが無性に食べたくなりました。大いに笑わしてもらったことをご報告します。(WELL BE)

2009年8月31日月曜日

「台湾人生」をみました。=日本政府の戦時謝罪が欲しいと痛切に訴えていました=

 酒井充子監督の「台湾人生」を十三芸術劇場で観ました。台湾が日本の植民地であったころに教育を受けて日本語をしゃべる台湾人と高砂族の人々へのインター式ビュードキュメンタリー映画でした。戦中は日本人に差別され、(成績良でも、2番どまり)、戦後は蒋介石軍に差別され、それでも小さい頃にたたきつけられた日本精神を持ち、出演する人は日本を懐かしんでいました。その一人が、日本人として死と向き合い戦って、戦後、日本に捨てられて、生きてきたが、日本政府に「ご苦労様でした。」の一言が是非欲しい、との痛切な一言が心に残りました。おりしも、民主党政権が日本に誕生しましたが、官僚的でない日本政府としての反省とねぎらいの弁を、かっての植民地の人々に語りかけて欲しいと思いました。

 妻の友人が台湾に住んでいて、その友人に美空ひばりの大好きな日本びいきの人がいました。そのことを懐かしく思い出しました。

 劇場でかってのサラリーマン時代の友人O氏に出会いました。「台湾人生」は不思議なご縁をもっている映画のようです。(WELL BE)

2009年8月15日土曜日

映画「大阪ハムレット」観ました=何とも面白い現代の映画でした=

 先日、千里中央セルシーシアターで「大阪ハムレット」を妻と観ました。何とも面白い現代の映画でした。監督光石富士朗、原作森下裕美マンガ「大阪ハムレット」、主演松坂慶子、岸部一徳、森田直幸他。

 複雑な家庭環境(①一家の主が死に、弟=岸部一徳が家庭に入り込む②3人の子どもは高校受験をめざす長男、ヤンキーでハムレットを読む次男、女の子願望の三男③全てをおう揚に包み込む母=松阪慶子)に現代の縮図をのぞかせる。母親を除き、皆それぞれに悩む。長男は、「父親の愛」願望の女の子との、たまたまの恋、次男は顔が死んだオトンと似ていないと思い、三男は女の子願望を級友に揶揄されて、居候の岸部一徳は職探しに・・・

“To be or not to be”

泰然としているのは母の松阪慶子のみ。

マンガを映像化でテンポがよい。おもしろくも考えさせる映画でした。(WELL BE)

2009年8月2日日曜日

村田喜代子「百年佳約」を読みました。=渡来陶工の子孫の結婚の模様=

 村田喜代子著「百年佳約」を読みました。渡来陶工の子孫たちの結婚群の物語でした。

 先祖が生まれた朝鮮から、日本に渡ってきた江戸時代、亡くなった百婆はあの世から、子孫たちの結婚の路をつける。死んだものたちの結婚も「冥婚」としてあり、一旦、破談になった婚約を再度成立させるため、「木婚」というものもあることを知りました。雌雄異株の雄の木を選び、木と結婚式をあげた女性は30日間、人に会うことも、しゃべることも一切無い。髪の毛を3本、木の根元にもぐりこませる。毛を抱きこんで木が根を張っていきます。30日が過ぎると、破談になった人と正式に結婚できます。

 亡くなっている百婆はあの世から渡来人と日本人の組み合わせもつくり一族の繁栄を模索していきます。また、当時、九州の村では、日本人の間には「夜這い」の風習があったおおらかな時代であったこともわかってきます。

 村田喜代子さんの短編小説集「八つの鍋」もよみましたが、日常生活の食や繰り返し作業に興味をむけて、こつこつと描く作風ですが、食や作業は身近なことであるだけに、親近感をもって読むことが出来ます。結婚という人生の大事も、子沢山であった当時の一族の繁栄を願う、先祖の祈りが、とうとうと流れていました。おもしろい、前向きな力を得ることの出来る楽しい小説でした。(WELL BE)

2009年7月29日水曜日

村田喜代子「龍秘御天歌」を読みました。=文禄慶長の役の渡来陶工子孫、葬送の物語=

 時は徳川三代将軍家光が亡くなり、四代家綱となつたばかりのころ、所は九州黒川藩、人々は1592,97年の文禄・慶長の役で朝鮮からの陶工たち、葬送される人、渡来人の子孫の辛島十兵衛。龍釜と名づけられた登り窯に働く渡来陶工の人々は約700名となっていた。よい陶磁器をつくるには土と、ワザがいる。当時、中国の技術も入っており、赤絵といわれる塗り物は日本人が担当していた。ベースは朝鮮からの渡来人の焼き物である。

 焼き物は黒川藩の財政にとっても貴重なもので、外国にも輸出されていました。

 村田喜代子さん(1945-福岡県八幡生まれ、「鍋の中」で芥川賞をとる‘99年「龍秘御天歌」で芸術選奨文部大臣賞受賞)は、龍釜の主催者、辛島十兵衛の葬送を日本風の火葬でなく朝鮮風に寝棺で埋葬しょうとして画策する妻百婆の奮闘を、ユーモラスな筆致で描いています。結末にむけて、推理小説風に読者を誘い込んでいきます。

 朝鮮と日本の違い「朝鮮:崇拝すべきもの、先祖(は絶対)、長幼の順序、哀号・・・・と哭する、・・・・」をしらしめ、民族の悲痛を浮かび上がらせている。続編というべき百婆が亡くなって、子孫たちの結婚話を語る「百年佳約」も引き続き読みました。次回に、ご紹介しましょう。(WELL BE)

2009年7月27日月曜日

「中国という世界」(竹内 実著)を読みました。=中国は歓楽と文明に向かう=

 中国の人・風土・近代を叙述した本でした。人について大家族制がベース、今でもきっちり守っている家族がある。(先祖崇拝は、日本:せいぜい2-3世代だが、中国:始祖からまつる) 国土は高低差6000メートル、3つ文化ブロック、北方・南方・西方 にわかれる。近代では 上海の戦前戦後の推移をとりあげている。結語の中国はどこにゆくについて2つの方向を示唆しています。

①大分、古いが後藤朝太郎が各地を旅して「歓楽の支那」を大正14年にまとめた中に「チュウゴクの社会は礼学を尊び、歓楽気分で統一でき、また妥協も成立している。」また別の講演会で「チュウゴクと戦争するのは間違っている。すれば負ける」と特高警察を気にしていったとのこと。

 この歓楽とは、「人生を楽しむこと」といっていいと思います。正月になると赤い紙にめでたい言葉をつらねて各戸に2枚、張っています。また、食べることを楽しみ、どの国の人も思いつかない北京ダックも考案しました。NHK中国語ラジオ会話では郭春貴先生は、「毎日楽しく中国語会話を勉強しましょう」といつも、笑顔で!と言っておられます。賄賂がはびこるのも、楽しく生きるにはお金がいるということなのでしょう。
人生は楽しむこと、と表立って言わなくともベースが楽しむことに向かっています。

②竹内実さんはもう一つ中国は「文明に向かう」といっておられます。北京オリンピックで市民に配布された資料に(1)マナーに文明的行動を(2)環境に文明的であれ(3)秩序に文明的であれ(4)競技場で文明的行動を(5)サービスは文明的行動を とあったとのことからの発想のようです。

 日本の「文明」の意味と中国の「文明」の意味が異なると思いますので、中国での意味で理解せねばなりません。中国人に求められることが「文明」という言葉に集約されていると思います。

 竹内実著「中国という世界」(岩波新書)は、チュウゴクを平たく理解する意味で、よい本と思いました。(WELL BE)

2009年7月4日土曜日

「ディア・ドクター」を観ました。=温かいまなざしがそそぐ映画でした=

 西川美和監督の最新作出演:笑福亭鶴瓶、瑛太、井川遥、八千草薫他。とある山の村の愛すべきお医者さんの物語でした。

 冒頭のシーンは夜のしじまを破って、1台のオートバイのライトが山間の道を移動する、途中白衣を拾って、村の詰め所で警官の尋問を受ける。・・・一枚の写真に警官のライトが当たる・・・その男は失踪した笑福亭鶴瓶演じるディア・ドクターだった。プロローグから断片的な山村の人々と一体となった、医者を浮かび上がらせる。導入の手法はみごとだ。一気に医者の失踪の謎に観客を連れて行く。

 八千草薫の控えめな好演が光っている。その背中、笑顔が人生を静かに語っている。動の鶴瓶、静の八千草の各々の笑顔がこの映画の虚実を映し余韻多いものにしていますし、久し振りの快作を観た、というのが率直な印象です。バックのハーモニカの音楽も良かったです。八千草さんの笑顔にやすらぎを覚えました。(WELL BE)

2009年6月19日金曜日

「幻の加耶と古代日本」文春文庫ビジュアル版を読んで


 江上波夫氏(1906-2002)他、分担して朝鮮半島南の加耶と古代日本のかかわりをまとめた本で吹田図書館で借りてよみました。その内の、江上波夫氏の「騎馬民族征服王朝」説をご紹介しょう。

 「日本の大和朝廷をつくった天皇族は中国の東北地方(旧満州)北部の騎馬民族扶余が南下したものだという。戦後、発表された。南下した騎馬民族の一族は高句麗をつくり、もう一族は朝鮮半島の南部に辰王国を建てた。辰王国は百済に残り、他の一部は加耶を本拠として、対馬、壱岐、筑紫にわたり、5Cの初め、応仁天皇の頃に大阪平野から、大和の豪族と合体して大和朝廷をつくったというのが、「騎馬民族征服王朝」説の概要です。

 牧畜騎馬民族は歴史的記念物を作らず、パオでは異人でも歓迎する。横に広がっていく。

 農耕民族は、城壁をめぐらし、伝統的な固定した悠久の文明を築く。家に門を持ち異人は門前払いをする。縦に深める。

 日本は熟成しない農耕民族の上に立った騎馬民族が建てた国だろうか。農耕民族の集団主義の上に騎馬民族の武が立った国なのかもしれない。(WELL BE)

定訳「菊と刀」ルース・ベネディクト長谷川松治訳 を読んで

 ルース・ベネディクト(1887-1948)は第2次世界大戦の折、米軍の委嘱を受けて、日本及び日本人のことを研究した。その研究成果が「菊と刀」として戦後出版された。日本人の捕虜や日系人の取材を重ねて、日本の歴史を勉強してとりまとめたもの。本題は「菊」に代表する文化の伝統と「刀」に代表する武・鍛錬が表裏のように織り成しているのが日本人だとしている。戦後の日本人の特質を以下に5つご紹介しょう。

① 日本人は天皇の命(めい)をうけ、戦争をやめることができた。しかも、とりたてて何の混乱もなく。戦争に負けたのを、誰も天皇のせいにしなかった。
② 鬼畜米英と叫んでいたのに、コロッと態度を変え、アメリカ軍に好意的であった。このことをアメリカ人は予期できなかった。
③ 「各々ソノ所ヲ得」と階級を是認し、世界に適用しょうとして戦争をはじめたが、失敗した。(世界の国々を序列して、その場所を得さしめると、日本の理屈を強要)
④ 恩の貸し借りで常に緊張している。(ちいさな貸し借りを覚えイーブンとしょうとする。)
⑤ 日本人の幼児期は、天真爛漫に過ごし、年を取るに従い、自己を抑圧(しんぼう)する。(西欧人は逆で、幼児期はしつけられ、年を取ると自由。)時として、二重性(従順にして傲岸)となる。

 日本人としてドッキリする指摘をされている。戦後65年経ったが、コロッと考え方
変える点、ビジネスで革新を叫び、過去の常識は、現在の非常識として変えようとするエネルギーが今も存在する。ニートのように生き方を知らない若者が、ある日、突然にめざめ、変身することがある。日々、恩の貸し借りで計算し疲れ、無礼講として大騒ぎする。我々日本人には根本的な宗教的な精神の支えがなく、それはアニメに解を求めにいったり、村上春樹の小説に向かったりする。つまり「道標」を探しているのだ。われわれ日本人は、現在のところ経済のグローバリズムをむかい、個人さえよければ他人はどうなってもよいとなっているようである。

 日本人とは何かを知るのによい今や古典的書籍である。(WELL BE)

2009年6月14日日曜日

高島俊男著「漢字と日本人」を読みました=日本人は漢字の輸入により精神的発達をとめられた=

 興味深い内容のある本でした。いくつかの高島さんの主張のポイントをご紹介しましょう。

1 民族の発展段階があり、「先に開けた」からといって「優れている」わけでない。
⇒中国は文明が先に開けたからといって、日本は後からだといって民族としての優劣は「早い」「遅い」にない。

2 日本に「孝」とか「信」とか「仁」とかの思想が人々によって作られていない時期に紀元後500年ころ漢字として入ってきた。
⇒そのため、「孝」とか「信」とか「仁」という概念がつくりこまれなく、借り物の概念としてはいり、人々の間で熟成されることがとまってしまった。

3 江戸時代に考えられた熟語は音と漢字がリンク。聞いてそのままわかる言葉が多く、中国人には意味がわからない。
⇒野暮、世話、心中、無茶、家老、家来、勘当、所帯。立腹、粗末・・・
(江戸時代につくった熟語は漢字が意味を表さない。心中とは心の中ではないし、野暮とは野が暮れるわけでもない。)

4 明治時代に英語を翻訳した熟語は、字義によっ漢字をつくった。そのため字義を瞬時に前後の脈絡から判断して漢字を思い浮かべてしゃべっている。中国がその多くを輸入することとなった。
⇒政治、法律、裁判、産業、建築、交通、機関、通信、金融、輸送、陸上、審判・・・
“シンバン”と聞いて審判と解釈するか新盤と解釈するかは、前後の話による。野球のシンバンといえば“審判”と解釈し、レコードのシンバンといえば新盤と解釈する。“シンバン”という言葉からは2種の熟語からどの漢字の言葉かを判断して、話をしている。 

5 明治時代以降、西欧が優れ、東洋が劣るとして過去を払拭しょうとした一環で漢字を排する考え方があった。その流れで戦後、1850字の当用漢字を使い、いずれ かな またはローマ字に移行しょうとした。
⇒国語審議会は当初の思想を忘れてしまい、今では かな ローマ字に移行する考えはなくなっている。言語は民族の考え方がつまっていて、表記する かな も同様である。敗戦で過去を抹殺しょうとしたが、幸いそうはならなかった。

 どうやら日本人には、つらいことが起こった後、過去を簡単に捨てようとする傾向がある。明治維新で西洋に遅れを感じたとき、「脱亜入欧」アメリカに敗れた時、国粋主義から180度転換し「アメリカ崇拝」へ。
どうやら根本のこれだけは動かない、というものが民族発展段階で止まっている可能性がある。

 ともかくも、幾多の示唆に富んだ本です。(WELL BE)

 

2009年6月2日火曜日

吉川幸次郎著「漢文の話」=漢文は近代まで95%、白話(口語)文は5%、現在はその逆(中国でのおはなし)=

 自家の書庫から、ちくま文庫の吉川幸次郎(1904-1980 京大教授)著「漢文の話」を取り出して毎日少しづつ読み進め、ようやく読了しました。中国では、漢文は近代まで95%、白話(口語)文は5%、現在はその逆の口語文95%、漢文5%とのことです。

 漢文とは何かを原文を中国の歴史から「史記」「資治通鑑」等サンプリングし解説し、伊藤仁斎等の日本人の漢文までを論評している。その中より司馬遷「史記」(人物ごとの編集で、年代別ではない)の「呂后本紀」から恐ろしい話を要約して記してみましょう。

 紀元前202年、漢の高祖(劉邦)が天下をとり、安泰となると戚姫を妾とした。本妻の呂后には孝恵皇太子がいた。高祖は戚姫の間に如意がさずかったが、戚姫は孝恵皇太子を排し、如意を替わりに皇太子とするよう、ひつこく高祖に迫っていた。とりあえす、趙王としたが、高祖は崩御してしまった。皇帝に孝恵皇太子がついたが、呂太后はここぞとばかり、戚姫と趙王に仕返しをしていく。詳細は省きますが、すさまじい権力者の業によって、呂太后は戚姫と趙王を滅ぼし、この一部始終を知った息子の孝恵帝も政務をみず、自暴自棄となり、病を得たということでした。

 中国の歴史家は時の王朝から命じられ、前王朝の時代をそれぞれ書き残し、24紀の漢文で書かれた歴史書をつくっています。。今後、先に滅んだ清が書かれると第25紀となります。清の歴史書は口語体となるのでしょうか。司馬遼太郎さんのペンネイムが司馬遷にはるかに及ばないとのことでつくられた由です。司馬遼太郎さんもなくなられてからも、日本人の心に生きていますが、司馬遷も中国人のこころの中に2000年も生き続けているのでしょうが、中国文明とは、およそ3500年前の漢字の発明一つとって見ても、すごいものだと思います。日本は漢字の恩恵を受けておよそ1500年です。感謝したいですね。公害防止技術等日本の先進技術部門で少しはお返しせねばならないのではないでしょうか。(WELL BE)

2009年5月26日火曜日

伊藤亜人著「文化人類学で読む 日本の民俗社会」=文明の周縁系に位置した日本=

 琉球大学教授(東京大学名誉教授)伊藤亜人氏の説を拝聴しょう。

 日本が地理的に東アジアの文明圏の周縁に位置したことで、漢文明を受け入れても体系的でなく、断片的であった。
仏教にしても民衆に何処まで体系的に受け入れられていたか疑問。論理において説くよりも仏像で、禅宗のように座ることによって悟ることが受け入れられ、(韓国では経典、僧侶の著作が大きな位置を占めている反面、物的なことは重視されていない)華道、茶道あるいは庭園などの物的表象や実践を介する事によって受け入れられてきた。

 日本の民俗文化とは、身の回りの具体的な物とのかかわりにおいて生活像を描く物であり、そのよりどころは抽象的な観念の体系でなく、即物的な土着の民俗信仰である。時に霊的・精神的にも交流する包括的で連続的な世界観である。ものに対する細やかな感性と知識を重視し、あるいは生活に即した経験や知識を蓄積しながら絶えず、改善と洗練を目指すという生活姿勢に特徴がある。

 江戸時代の荷田春満は「唐土の文明道理を説くに対して、日本は身の回りのものに託して表現する」と指摘した。日本人にとって大事なのは論理の観念でなく、身の回りの具体的な“もの”に対する感性が大切とされる。ものにも何か主体があるとされる「もののあわれ」ということとなる。
物や場から脱却できない未開な状態とみなすことができる。物や場からはなれたことを抽象的に言うと「例えばどういうことか」と具体的にしめすことが求められる。

 伊藤教授は「日本は東アジア文明圏の周縁部で、中国文明を断続的に受け入れたが、根は土俗社会で、ものと場との関連で考えてきた民族で、論理性が論議されてこなかった。明治維新以来、一挙に近代化したが、精神の根底部分はそのままであった。周縁部のため、この点が看過され、先進国に伍している。日本人はこのことを忘れずに、分を持って貢献していかねばならない」と。思えば、サラリーマン時代を通じても、論理のある人が出世してきたように思う。多くはその人達に右にならえであったようである。論理的思考をはぐくむのは一つは読書であろう。また人と議論をすることであろう。世界が小さくなった。日本の位置はアジアの辺縁部に属するが、論理性を高めて文明先進国に対していかねばならないと思う。(WELL BE)

2009年5月22日金曜日

陳舜臣著「日本人と中国人」を読んで=両国が隣国なのは摂理=

 台湾人であり、神戸に住み、幼い頃は家庭では中国語を話し、学校では日本語を習い、常に日本と中国のことを考えてこられた陳舜臣さんの日本人と中国人の比較論は具体的な例証をされ、説得力がある。その一部をご紹介しょう。

・ 日本人は結果を重んじ(過程軽視)、中国人は過程を重視する。[かって上司から、早く結論を言えといわれたこと多い。販売においても売れたか売れなかったか結果重視でした。]
・ 日本語は結果が見えないとしゃべれない、中国語はしゃべりながら考える。[メイルでも何でも結果が出ないと出しづらいです。]
(私は誰それが好きだ。と結論を出さないと、そのことをいえない。ところが、中国語は我愛・・といって誰にしょうかなと考えて後にいってよい。また中国語はウチハアンタガスキかワテハオマエガスキナンヤかワタシハアナタヲアイシマスかいずれかを判断しなければならない。日本語は具体的にいってしまう。そのため、結論でなかったら・・・)
・ 日本人はどちらかといえば寡黙、中国人は雄弁となりやすい。
・ 日本人は道標を探し、中国人は議論してどちらに行くか決める。[私が本をよく読むのは道標を探しているのかもしれません。]中国文明の開発者として、紀元前15世紀ころから漢字、儒家思想・孫子思想他を喧々諤々の議論の後、生んできた。日本は紀元後5世紀頃より、中国文明を議論少なく簡単に取り入れてきた。明治になると、またもや簡単に今度はすばやく、西洋文明を取り入れてきた。
・ 日本人は新しいものの取り入れを得意とし、中国人は歴史を重んずる。(歴史が重くのしかかり、新しいことを取り入れるのに時間がかかる)
・ 日本人は扇の一閃の指示に一斉に従い、中国人は納得するまで指示に従わない。(中国の歴史書によると、倭寇や豊臣秀吉の朝鮮戦役でもリーダーが扇をあげると一斉に動いたようです。)
・ 日本人は血統を重んじ(天皇家、家元)、中国人は混血を問題としない。
・ 日本人は緊張して食べ、中国人はのんびり食べる。[異論ありますが、料亭ではそんな風です。]
・ その為、日頃の緊張をほぐすため、時々無礼講といって大騒ぎする。(昔の高等学校生等)
・ 日本人はワリカン、中国人は一人が払う。(面子第一)
・ 日本人はタオルを動かして顔をふき(ものの処理が得意)、中国人はタオルを動かさず顔を動かして拭く。
・ 日本人は保存マニア(古い中国書籍残る)、中国人はカタログマニア(何を書いたかのみ残り古い自国の書籍残らぬことが多くある)
・ 日本人は何でも人間が出来るとは思っていないし、むしろ自然を愛するが、中国人は人間で何でもできると思ってしまう。(黄河を制御してきたという自負。揚子江を三峡ダムで制しょうとしている。また揚子江の水を50年後に黄河につなげようとしている。)

・・・・いろいろと他にも例証がありますが、中国と日本が隣国なのは摂理だと陳舜臣さんは、いっています。以上のほか、示唆の多い本です。(WELL BE)

2009年5月11日月曜日

姜尚中(かんさんじゅん)著「悩む力」=社会と人とつながりをもて=

 50万部以上売れています。現在の多くの人が持つ閉塞感がこの本を人々に読ませているのだと思います。

 明治時代を生きた夏目漱石と同時代をドイツで生きたマックスウエーバーの二人のいき方をそれぞれの項目で参照しながら「悩む力」を持つことの大事さを語ってくれます。この本で姜尚中(かんさんじゅん)さんが言いたいことを要約しますと次のようになると思われます。

 「適当なお金を稼ぐ仕事を持ち、(仕事は人と社会をつなげる意味で大切)知のある限定された範囲でエキスパートを目指し、連れ合いがいれば、その人のいうことに反応を続け(愛ということ)、生きている意味を確認でき、他者を承認し(そのことで自己を認めてもらえる)、「まじめ」に生きよ。(悩む力となる)」

 人と社会とにつながりを持て!が、特に姜尚中(かんさんじゅん)さんの言いたいことと思いました。今と同時代と思われる時代を生きた夏目漱石とマックスウエーバーの例証があるので、自論に奥行きを産んでいるようです。平易な噛んで含めるようなお話でした。

 最終章は「老いて最強たれ」ですが、夏目漱石、マックスウエーバーが50歳そこそこでなくなり、姜尚中(かんさんじゅん)さんが60歳に近いため、夏目漱石、マックスウエーバーを例証できませんので、姜尚中(かんさんじゅん)さんの意思を表明されています。(人生を2生し、ある程度お金をため、ハーレイダビットソンを乗り回し、日本・朝鮮縦断を、他)

 「老いては、それぞれが道を見つけよう」と小生は主張します。「老いて100人100色の生き方あり」それは、その人の人生の様々な悩む力によりもたらされると思います。(WELL BE)

2009年5月9日土曜日

映画「四川のうた」―中国成都の軍需工場、過去と現在―を観て

 ジャ・ジュンクー監督「四川のうた」(原題「24城記」)は、瀋陽から50年前に人と装置が移動した秘密軍需工場がこのほど解体され、3万人の従業員と敷地内の家族(学校・病院もあった)は解散され、跡地の一部はマンションにと変貌していく瞬間をドキュメンタリータッチで証言のうち、3人は俳優と、その他の生の人々をそのまま起用して製作された。この作品の見所は6点にまとめてみました。

① 現在のものと人に焦点を当てて、過去50年の思い出を約100名の人に語らせたあるいは静止画としてみせたことがユニークな着眼点だった。
② 3人の俳優はあたかも当事者として、たんたんと語った。これは真実の人か、俳優かと頭を悩ませた。そこのところが面白い。
③ 中国のことわざ 英国イェーツの詩 が啓示的に配されていて。深みを与えようとしていた。画面が瞬間で切り替わり残像として残りにくかったのがおしい。
④ 日本とのかかわりで、山口百恵の歌とTVショットが飛び出してくる。中国で文化大革命後の空白の時期に、山口百恵のTV「赤い殺意」が中国でブームを巻き起こした背景として、そんなこともあったのかと、日本人にサービスしてくれるのはうれしい。
⑤ 「長江哀歌」もジャ・ジャンクー監督作品で長江ダム建設で変わり行く姿を映像に残したが、「四川のうた」も国営軍需工場の解体の一こまを記録に残した。歴史として記録として残ることはすばらしいことだと思う。
⑥ なまの成都の貧しい電線のぶら下がる建物の一室の姿と富めるドイツ車を乗り回す姿と垣間見える一部の富裕層のいる対比を描いていた。これが中国の現在だと。

いろんな意味でおもしろい試みの映画でした。北野オフィスが製作に協賛していました。(WELL BE)

2009年5月5日火曜日

河田悌一著「中国を見つめて」(1998年研文出版)を読んで=章炳麟の考え方=

 吹田市立図書館で借りて読みました。長年にわたる新聞他のエッセー集でした。中国への柔らかで、温かい目が全エッセーを貫いています。飛ばし読みせず、精読しました。その価値がラストの「東洋と西洋のはざまで―西欧近代文明と夏目漱石そして章炳麟―」で発揮されました。

 夏目漱石は日本の明治以降の開国は、江戸時代までの自発的なものでなく、外発的なものであったとしていたとのことです。

 章炳麟(1869-1936)は中国の辛亥革命(1911)の3傑(孫文、黄興と章炳麟)の一人で、画期的と思われる次のような持論を発信していた。①進化論は全てに適用できず、陰陽あるがごとく、経済発展では、適者生存した優位なもののみが残ると同時に、劣者はますます劣者となり、富も増えるが、反対の汚職等の醜いことも増えると。百年前にいったことが、前者は現日本で、後者は現中国で実感できそうである。中国の思想家は、考えを表明するだけでなく、政治行動に移すという“士大夫”の伝統を持つという。政治体制では、共産党は中庸をめざす中国には適さず、いずれは中庸に向かうだろうとも予測している。また省等の自治の範囲の大きい連邦制を唱導した。
 章炳麟は日本について興味深い辛らつな指摘をした。アジアでは文明は中国とインドのみあり、日本は固有の文化もなく、ただ模倣のみであった。西欧人を手紙の発信人に例えれば、日本人は手紙を受け取る人で、日本の学者・学生は、郵便配達人に例えられる。即ち、西欧の技術ものの受け売りで中国に伝えたということ。そう言われると当たっている。小生思うに、章炳麟が現在に生きていれば、一旦は第2次世界戦争に負けて60余年後、日本の繁栄をどのように説明するだろうか?ということです。中華思想での自己本位の断言だということでしょう。しかし、この大づかみはあたらずともいえど、遠からずのところあり、詳細を見落としているといえそうです。その詳細は何かを勉強して行きたいと思っています。(日本人では芥川龍之介が面識を持っていました)

 顧炎武(1613-1630?)は「国家の興亡に匹夫も責あり」といった。300年を有にたった時点で、NYでの靴磨きの中国人が「天安門では大変だったね」との返答に「匹夫も責あり」と言ってテレたようであった、と。

 日本人固有の言葉で他国人に語れる過去の偉人の言葉があるだろうか、と河田悌一さんが思った由です。
王敏(ワンミン)さんが「宮沢賢治のアメニモマケズ、カゼニモマケズ・・・」がありますよ、といってくれそうですね。

 尚、河田悌一さんは現在、関西大学学長に就任されています。(WELL BE)

2009年5月2日土曜日

テーマリレー複合式読書法と加藤徹著新潮新書「貝と羊の中国人」のご紹介をします

 最高、6冊同時読みをしましたが、ごーっと頭を通り抜けます。ノートに後日、一冊づつまとめを記入していきます。勝間和代さんはつまらないと思ったら、読書中止、インターネット上と同様、飛ばし読みも可とのこと。小生は、真面目な性格が災いして、精読しています。

 まず、読書にテーマがあることが、本を探すことにつながります。“BOOK OFF”から新刊書店での探索(はじめと終りと目次を読みます。小遣いと相談します。)、その本を読んでいると大抵、引用される本について気になるものがあり、図書館で検索して予約して借ります。・・・予約すると読む期待感が生まれます。作者が気に入るとHPで検索して情報を得ます。複数本をパラレルに読みながら、最後はまとめようという気を起します。読書中は、気になるフレーズとページ数を小さな紙に書き込みます。後で見返したり、まとめをする時に小さな紙(A4を1/4にきったもの)を完成します。本にはさんでいると見返すとき、内容にたどり着きやすいです。現在、テーマを「東アジア」として、朱建栄著「中国第3の革命」、河田悌一著「中国を見つめて」、姜尚中著「悩む力」読書中、そして加藤徹著「貝と羊の中国人」読了しましたのでご紹介しましょう。(09年6月にちょっとしたまとめものを作成予定です。)
 
 =加藤徹著新潮新書「貝と羊の中国人」=新刊本を購入し、2日で読みました。切り口がユニーク(貝~ホンネ~と羊~タテマエ~、流浪のノウハウ~1泊しても定住しても熟語は“住”~、中国人の頭の中~功徳 ODAは功徳でない贖罪や商売見え隠れ、真の徳を期待されている~、人口から見た中国史~長く1億人くらいの人口続いた~、ヒーローと社会階級、地政学からみた中国、黄帝と神武天皇、中国社会の多面性)で面白かったです。この本が、韓国語、中国語に訳されて出版されているのは驚きでした。加藤徹さんは明治大学の教授です。NHKTVでお見受けしました。他の著書に「漢文の素養」(光文社文庫)、「漢文力」(中公文庫)[韓国語、中国語に翻訳されています。]漢文が日本語として血肉となってくるのは江戸時代以降のようです。徳川家康が「論語」等を支配のツールにしたことが、その後の日本に大きな影響を与えたようです。将来読む時のために書名を頭にインプットしておきます。(WELL BE)

2009年4月29日水曜日

クリント・イーストウッド監督主演の映画「グラン・トリノ」観ました。

 老人の一徹な風貌に隠された朝鮮戦争での殺戮の記憶を心の痛みとして、かっての名車フォード社製愛車グラン・トリノを心の糧に人生の結末に向かってベトナム戦争にアメリカ軍と共に戦ったモン族の人々をからめたストーリーが展開されるクリント・イーストウッドの監督主演の秀作でした。

・ 老人のフォード社グラン・トリノとトヨタ車ディーラーの息子の車対比で世の中の様変わりをそれとなくアピール
・ かってのこころの傷にさいなまれる老人と現実を生きる息子たちの相容れないこころの対比
・ ラオス・ベトナム・タイの境界に住んでいた盟友モン族の移住してきた青年の人生のスタートの支援と、老人の人生のエンディングに向かう対比と感動的な結末(ここに記すことはできません)

 俳優兼監督の78歳のクリント・イーストウッドはエネルギーあふれ、全ての人の励みとなる方です。すばらしい映画をありがとう。一見をお勧めします。(WELL BE)

2009年4月24日金曜日

映画「スラムドックミリオネア」を観ました。

 アカデミー賞8冠のインド・イギリス合作、ダン・ボイル監督「スラムドックミリオネア」を観ました。

 クイズミリオネアを軸に1問ごとに、インドムンバイのスラム育ちの少年のたどってきた人生が次第に明らかとなっていきます。スラム育ちの主人公が答えが分るはずがないと、警察に逮捕される尋問のシーンと交差して複雑に物語が展開します。兄弟の対比的な性格が描き出され、主人公の少女への愛が貫かれます。

 複雑な展開を織り込んだ脚本がすばらしい。また、ムンバイのスラム、こんな世界が今もあるのだということが記憶に残ります。栄光と挫折、貧困と富、愛。「何事も運命」・・・・いろんなことが溢れている映画です。

 エキサイティングでしかも考えさせられました。(WELL BE)

2009年4月18日土曜日

ジョン・ウー監督の「レッドクリフPartⅡ」を観ました

 圧巻ですね。戦闘シーン。
麗しいですね。友情2つ。

 まずは、戦闘シーンのすさまじさ、どうやって撮影したのだろうか?人が人を乗り越える・・・とても表現できないスケールです。

 また、友情について、2時間を越える緊張は、映画を観終わって後、爽やかに2つの友情が心に残っています。

 一つは、男装して曹操軍にはいりこんだ孫権の妹と曹操軍のサッカーの上手な青年とのユーモラスな友情。
 一つは蜀の諸葛孔明(金城 武)と呉の周瑜(トニー・レオン)との知恵比べの後の真の友情。これも観てもらわねば伝えにくいです。

 一見の価値のアル映画です。超満員でした。(WELL BE)

2009年4月16日木曜日

呉軍華「中国静かなる革命」を読んで

 実に中身の濃い本でした。中国の経済、政治にわたって、データーの裏づけとともに呉軍華さん(日本総合研究所理事他中国の投資会社の董事長)の見解が述べられている。政治を中心に、次のように読み取りました。

 2022年までに中国は民主化に向かうだろう。2002年胡錦濤主席就任以来、和諧社会へ進むべく舵取りがなされている。自国の歴史やスウェーデン、シンガポールの制度を学ぼうとして作業が始まっている。また、郷の単位から選挙も一部で始まっている。ある省の研修での共産党幹部のアンケートでは、民主化に対する賛意が多い。共産党員は現在7730万人で国民18人に一人の割合。富が役人・経営者・知識人に片寄っているという問題があり、既得権益者の多くが共産党員である。したがって、急激な多党化等の変化でなく漸進的となるだろう。(現在共産党のほか8つの政党がある。)いまや、先富論から共富論に視点が移行しつつある。富の偏重の是正も含めて課題多くあるものの中国は前進を続けているようだ。

 中国の漸進的な改革は、多方面に静かに進んでいるようです。経済の世界的牽引、東アジアの穏健的な結束に貢献して欲しいと願っています。(WELL BE)

2009年4月9日木曜日

パラレル読書してみました。

 ある著名な方が、本10冊パラレル読みを推奨していました。評論家の竹村健一さんが、課題を深掘りする時、関連の本の関係部分を破って一つとして読むと、かって言っておられました。そこで小生も、中国のことについて本5冊、パラレル読みをしています。その感想は次の通りです。

① 異なる本のそれぞれのよさがわかってきました。(それぞれ発行の意義がある)
② 特にこれはという本を、貴重に感じます。(違いがわかります)
③ 中国の近代の歴史的背景等のつながりを感じます。(前後とびとびですが)
④ 小説が中にありますので息抜きとなります。(ある種、楽しみとなります)
⑤ 結局、ある種の苦行のため、一番読みたい本を最後に読みます。(読みにくい本から読む)

 テーマを持つとパラレル読みはよい方法と思いました。

 ちなみにその五冊とは、清水美和「中国問題の内幕」、衛慧「上海ベイビー」、中嶋峰雄編「中国現代史」、朱建榮・上村孝治「チャイナシンドローム」、呉軍華「中国静かなる革命」。一番今の自分の求めているものにぴったりくるのは呉軍華「中国静かなる革命」です。読みきったときに、その内容骨子を掲載したします。(WELL BE)

2009年4月4日土曜日

ありがとう 王敏(わんみん)さん

 王敏(わんみん)さんは1954年生まれの中国の方で、幾多の幸運の後、日本に留学され、現在は法政大学教授をなさっています。宮沢賢治を研究され、岩手日報宮沢賢治賞を受賞された。

 王敏著「謝々!宮沢賢治」(朝日文庫)から私が感心したところを次にしるします。

 小学校の頃、先生から旧日本軍のあくどい行為を教えられ、その現場も見学し、また祖母よりも"日本軍が通った後は家畜も畑も荒らされた"と教えられ、ただ、母は日本の医師から学び、よい人だったと、教えられたが、日本に悪いイメージをもっておられた。

 ところが、宮沢賢治の言葉、"世界全体が幸福にならなければ個人の幸福はない" "マヂエル様、憎まない敵をころさないでよい世界になりますように。そのためなら、なんべん引き裂かれてもかまいません"・・・・に出会って、心が引かれていったとのことでした。

 そして、幾多の難関の後、宮城教育大学に留学されました。

 王敏(わんみん)さんによって宮沢賢治を認識しなおしました。宮沢賢治を勉強しょうと思いました。

 饅頭という熟語について 中国では饅頭のことをその後、包子というようになりました。三国志の時代、蜀の軍師、諸葛孔明が南蛮に遠征して帰路、川が増水して渡れなくなった。下った敵将から「人間の頭や牛、羊を川に供えれば川の怒りは収まります」と聞いて、人間の頭の代わりに、小麦粉の大きなかわの中に牛肉や羊肉をつめてそなえました。孔明の祈りもあって、川の氾濫は治まって無事、故国蜀にかえれたという故事によっています。

 饅頭の字をよく見ると意味不明ですが、このように聞くと、由緒があり、故事を味わって食べるとおいしさもまた格別のものになると思っています。

 その他いろいろ、王敏さんの熱気が伝わってきました。

 ありがとう王敏さん。(WELL BE)

2009年3月23日月曜日

勝間和代さんの3つの奨め【①人見知りしない②本を読む③はじめたことは続ける】

 最近、妻が熱心に勝間和代さんのことを、小生に2度語った。1度目は「勝間和代さん知ってる。本屋に本がつんでいるよ」というと、聞く気がないと見て、「あなた聞いてる?」といって話を中断した。

 次の日、「勝間和代さんは3つのことを奨めているのよ。①自分と気が合う人たちだけでなく、気があわなかっても、それなりにつきあうこと。何かはプラスになるとのことよ。 ②勝間さんは本を50冊1ケ月に読み、トイレにも置いているのよ。③一旦はじめたことは続けることよ。」
「ウーン、なるほど。参考になった。有難う。」

 妻が、これほど熱心に有名人のことを語ったことはない。同性として、共感しているのだろう。

 私も勝間さんの3つの奨めを実行したいと思っている。(WELL BE)

2009年3月22日日曜日

映画『シリアの花嫁』を観ました。【ゴラン高原の現在を知りました】

 2004年イスラエル・フランス・ドイツ製作映画 エラン・リクリス監督「シリアの花嫁」はゴラン高原の現在の姿、シリアはシリア領土としているし、イスラエルは占領した領土であると考えている現実を一人の花嫁の一日を通じて語ってくれます。

 登場人物の言語は、アラビア語・ヘブライ語・英語・ロシア語・フランス語と国際色が豊かです。ゴラン高原のマジュダルシャムス村のイスラムの少数派とされるドゥルーズ派の一家族の結婚式に親類縁者が集まってくる。花婿はシリア側、花嫁はゴラン高原のその村にいる。村の人々は無国籍となっている。ゴラン高原から出るともう、戻れない。

 出国に際して、お互いの国(シリア・イスラエル)の面子のはりあいがある。

 わが国の近くでも、南北朝鮮の境界線、尖閣列島周辺、竹島周辺、北方領土周辺とニュアンスは違うが、国々のにらみ合いはある。世界市民という感覚を作らない限り解消しないのだろうか。

 「シリアの花嫁」の現実は、形を変えてどこにでもあるといえる。見ごたえがあり考えさされた一本の映画でした。(WELL BE)

2009年3月13日金曜日

⑲人の性は悪なり[荀子]⑳木を北面に移す[商鞅]

 BC300年ごろ、斉王はさかんに学者を集めた。その最たるものが荀子であった。儒家の性善説が孟子に引き継がれ、性悪説が荀子に引き継がれた。「人は生まれながらにして、耳目の欲あり、声色を好むことあり。これに順(したが)うゆえに、淫乱しょうず。」だからこそ、「礼儀」で人間しばらねばならない。それを一言であらわせば、「人の性は悪なり、その善なるものは偽なり」ということで「これはやってはならない」というおきてができた。「先聖・後王の法」という。

 『荀子』の「修身」「勧学」2編には、教育によって本性をねじまげることが説かれている。また、ことばに表すことと、迷信を否定している。この考えを進化させて商鞅、韓非子の法家思想ができる。

 秦の商鞅は度量衡を統一し、さまざまな法を施行した。法の徹底を図るため、約7メートルの大木を南門に立て「北門に移したものに十金をあたう」と宣告した。ところが、民は半信半疑、誰も信用しなかった。そこで、「五十金」をあたうとふれを出した。ある男がこわごわ北門に移した。たちどころに商鞅はその男に、「五十金」を与えた。ようやく人々は法の値打ちを信じ始めた。やがて商鞅は、その法で命を落とすが、法の整備は秦を強国にしていき、始皇帝の出現となり、中国は統一された。その段階では、古のことを良しとする儒家思想は否定され、「焚書坑儒」(儒家の本が焼かれ、儒家が生き埋めとなる)する。

 漢代に入ると、儒家思想は復活していく。宋代の朱熹により儒家思想が理論化される。隋から清末まで、儒家思想の記憶は官吏登用試験「科挙」の必須項目となり浸透していった。現在の中国・韓国・日本の冠婚葬祭の共通の部分に儒家思想は残っていますし、さまざまな考え方の共通部分にある思想が中国の古代にうまれたものと考えています。一旦、中国名言集の連載をこの回をもって終了します。(WELL BE)

⑱鶏鳴狗盗[孟嘗君]

 BC310年、斉の宣王によって薛(せつ)に封ぜられたのが孟嘗君(もうしょうくん)である。大きな包容力をもった人物で、食客3000人を養ったといわれている。食客の中には、どろぼうの類や、鶏のまねの上手な人もいた。孟嘗君の名は幾多の功によって中華を動かすのは孟嘗君であるというほどになっていた。

 当時の強国秦は孟嘗君を招いた。臣下と食客を引き連れて孟嘗君は秦に向かった。昭王は相(しょう)の席を与えた。昭王に孟嘗君を殺させようとした臣下がいた。「後顧の憂いとなりますぞ」昭王も考え直して、孟嘗君を捕らえようと孟嘗君の邸を包囲した。孟嘗君はひそかに昭王の寵姫の幸姫に使いを送って、包囲を解いてもらおうとした。幸姫は「狐白裘(こはっきゅう=狐の皮衣=)」を要求した。狐白裘は天下に二つとないもので、すでに秦に入ったときに昭王に提供してしまっている。

 困っていると、食客の中より「私に任せてください」と狗盗といわれている狗のようにすばしこく走り巧みにものを盗み出せる人が狐白裘を昭王から盗むことを提案した。「たのむぞ」と孟嘗君は依頼して、狐白裘を蔵より盗み出し、幸姫に提供して、とりあえず囲いを解いてもらった。

 孟嘗君は秦を脱出しょうと、函谷関(かんこくかん)に急いだ。ところが夜がまだ明けない。「こまった」と一行は夜明けを待とうとした。鶏が鳴かなければ、門は開かない。「私がやってみましょう」鶏鳴の上手な食客が言った。「ようし、たのんだぞ」「コケコッコー・・・」と鶏のまねをした。周りの鶏たちも夜明けが来たと思い、一斉にコケコッコーと鳴き、関守は少し早いが、門を開けた。孟嘗君はほうほうの体で函谷関を通り過ぎ無事帰国できた。後世、この2つの故事を取って「鶏鳴狗盗」といって、無用・害のあるものでも役に立つことの例えとした。

わが国でも、祇園祭の2番目の鋒に函谷鋒があり、孟嘗君の故事をしのんでいる。
また、和歌としても清少納言「夜をこめて 鳥の空音(そらね)は はかるとも よに逢坂の関は ゆるさじ」と孟嘗君の故事を踏まえて歌をつくっています。中国の故事がゆかしく日本に伝わり、日中の奥の深い関係がわかるようです。以上は宮城谷 昌光「孟嘗君と戦国時代」を参考としました。(WELL BE)

2009年3月12日木曜日

中国名言集⑰彼を知り、己を知れば百戦危うからず[孫子]

 ⑯の蘇秦、張儀の師匠鬼国先生とは斉の国に隠居していた兵法家らしい。その斉の兵学の元祖が紀元前6C末の孫武であった。孫武は呉の王闔閭(こうりょ)のもとに押しかけて軍師となり、楚の都までふみいって諸国を震え上がらせた。その後100年ほど経って、孫武の子孫に孫臏という人が現れた。斉軍の軍師として、韓を破った魏と対決する。孫臏の進言を入れて、兵の竈の数を進軍先で一日単位で減らしていった。魏の龐涓(ほうけん)は竈の数がだんだん減っていっていることを見て、脱走兵が増えたと判断して、かくる考えて、騎兵のみとし、急追した。一方の斉軍は孫臏の教えを入れて、道の険しい馬稜で兵を隠し、道の左右に1万の弩を伏せさせた。それから大樹を削って「龐涓この樹の下で死せん」と大書した。果たして日没後、魏の騎兵が馬稜に到着し、文字を見つけたが読めないので火を鑽(き)って照らしてみた。そこに矢が伏所から一斉に発せられた。魏の騎兵は進むことも出来なくなって、龐涓は自殺した。

 孫子の兵法とは孫武、孫臏のそれをさす。

 「彼を知り、己を知れば百戦危うからず。」

 「用兵の法は、国をまっとうするを上とし、国を破るはこれに次ぐ、軍をまっとうするを上とし、軍を破るはこれに次ぐ。・・・・この故に百戦百勝するは善の善なるものにあらず、戦わずして、人の兵を屈することこそ善の善となす。」

 この前半を日本に当てはめれば、日清・日露・第1次世界大戦で全勝したが、太平洋戦争に敗れた。この反省の元に、現在は専守防衛で戦わずして、人の兵を屈している。防衛幹部も孫子の兵法を学びなおして欲しい。(WELL BE)

2009年3月10日火曜日

中国名言集⑯合従連衡[蘇秦、張儀]

 戦国時代の蘇秦は洛陽の生まれで斉に行き、鬼谷先生につき学習した。卒業後、困窮して帰郷した。みなに笑われて、一念発起し、秦王にバカにされ、趙でもうまくいかず、燕王をようやく説得できた。燕王の正式な使者として、各国をといて回ったのが、強国秦に対し、他の国が共同でコトにあたる合従策でした。BC318年6ケ国の連合軍が秦に対しましたが、連合の弱さがで、敗退します。

 張儀は魏の人ですが、東に行ってやはり鬼谷先生に学び、諸国遊説のたびに出て、楚に入った。その相(しょう)の客となった。楚の相と酒を飲んでいたが、大事な宝がなくなる事件が起きました。相の臣下は一様に張儀を疑い、数百回鞭をうったのち解きはなしました。故郷に帰ると、妻が「読書して遊説しなければかくもならなかったものを」と張儀は妻に「わが舌はまだあるか」といいました。妻は「まだありますよ」張儀は「それなら、十分だ」―――張儀の生涯の主題は定まった。―――楚を滅亡させること。

 張儀は秦の恵文王に取り入り、各国と「秦と仲良くするのが肝要でござる」とといてまわり秦と各国という横の同盟を推し進めた。特に楚については策略をつかい、BC223年に滅亡させる。

 楚の屈原は何度も王をいさめるが、流れを帰ることが出来ず、洞庭湖にさまよい泊羅(べきら)に身を投げた。後世の「続斉諧記」に「5月5日、泊羅(べきら)に身を投じた屈原の悲憤をいたみ楚の人々は5月5日には竹筒に米を入れ水際に投じて祭るようになった。後漢のころから粽(ちまき)を供えるようになった。」とあるそうです。端午の節句に粽を食べる習慣ははるかな屈原の故事に由来しているのは日中の縁を感じます。

 屈原は「楚辞」(わが国の万葉集のようなものか)を残した。後世、朱子がその注釈「楚辞集注」を表した。

 日中国交回復を果たした田中首相(当時)に毛沢東主席(当時)は「楚辞集注」をおくった。この意味は、楚が滅亡するまでは本来、天真爛漫な楚の国があった。が、日本の侵略戦争で塗炭の苦しみを負った。それは屈原の気持ちにも重なる。日本よ、この苦しみがわかるか!ということだったのでしょうか。

 当時、田中首相は「大変ご迷惑をおかけしました」といったと新聞報道にありました。周恩来首相が「ご迷惑といったそんなものではない(苦しみだった)」と後日言ったとのこと。それを聞いた田中首相は日本では「ご迷惑をおかけしました」という、とも新聞報道にありました。侵略された痛みは侵略した側ではわからないのではないでしょうか。心したいです。(WELL BE)

2009年3月8日日曜日

中国名言集⑭朝三暮四(何事も相対的)⑮万物斉同(生も死も同じ)[荘子]

 サルを飼っている人がいました。あるときサルに言いました。「朝は3つ、夜は4つだ」サルたちはギャーギャー文句を言いました。

そこで、飼い主は「朝に4つ、夜に3つだ」といい直しました。するとサルたちはキャッキャ、キャッキャと喜びました。これを「朝三暮四」といいます。

 BC4Cの初め頃、宋の国で荘周が釣り糸をたれて、のんびりと世の中は相対的なのだといっていました。思い方で気持ちが違うだけで、結果は7つで同じです。「荘子」という書となり、孔子・孟子の難しい話から「老子」も含めて、ほっとする思想をまとめました。他に、有名な「胡蝶」の夢というのがあります。荘周が夢で胡蝶になったのか、胡蝶が夢で荘周になったのか。それはどちらも正しいといえる。・・・とらえ方によるということで、事実は変わらず、人の思い込みで荘周が胡蝶になったと思いがちになりますが、逆も真なりです。

 また、こんな話もあります。個人が喧嘩し傷つけると罪となりますが、国家が戦争で大義名分を立てると、人を傷つけることが正当化されます。つまり、罪であることが罪でなくなる理屈で、人々は何とも思わない。ものごとは、相対的だとこんなことも荘周は言っています。

 生きるも死ぬも状態が変わるだけ、万物は皆同じ「万物斉同」といっています。生きるものは全て死ぬ、そのことは自然、死んだらそのからだを大自然にまかせればよい。2,300-2,400年前の中国の生んだ荘周という思想家の考えがその後の中国の人々に加筆修正され今日に「荘子」として残っています。運命論というものが、ありますが、「荘子」がルーツであるようです。ジタバタしても始まらない、過去も未来もない、今ここにある巡り合わせが運命である、と私たち東洋人は考えがちですが、その根源が「荘子」に由来するものなのでしょうか。

 仏教がインドから中国に紀元後はいってきて、「荘子」の思想のあった中国の人々に仏教の「無」という原理が共感を覚えられて、受け入れられました。結局は「禅宗」(自力本願で座り無に同化する)、「浄土宗」(他力本願、南無阿弥陀仏と唱えて全てお任せ)が混然なってと中国に残りました。(WELL BE)

中国名言集⑬女は愛人のために容(かたち)す(中国人の友情-「義」)

 孟子は君臣の義について次のように言っている。「君から与えられた十という待遇があれば、臣は十だけお返しすればよい、君がマイナスの扱いをしたら、かたきとして仕返しをせよ(それだけ君は下を遇せよという意味)」と。日本人の忠義とは忠臣蔵等を見ていると「下は上には盲目的に従う」と信じられているので、少し違うようだ。

 今の山西省に「晋」という大国があった。BC376年、内戦が起こり韓・魏・趙に分かれた。晋の代官職の智伯に使えていたのが予譲であった。智伯は趙の晋陽城を水攻めして苦しめたが、やがて韓・魏・趙連合軍に敗退する。勝った趙襄子は智伯の頭蓋骨にウルシをぬり、便器とした。よほど智伯がにくかったとみえる。主人を失った、予譲は「士は己を知るもののために死し、女は己を悦ぶもののために容(かたち)すとかや、われ必ず智伯のあだを報いんがために死して、あの世にて智伯につげんとす。(史記)」といったとのことだ。

 予譲は趙襄子の宮中の雑役に身を変えて、趙襄子を狙ったが、目の険しさでとらまえられた。ひったてられた予譲に趙襄子は言った。
「滅んだ主君のため、旧臣があだを報じようとする。こやつは義士じゃ。こちらが用心して避ければ良い。はなしてやれ。」

 釈放された予譲は、体にウルシをぬって膿だらけの身となり、炭を飲んで声をつぶして、趙襄子を橋の下で待った。趙襄子の乗った車に襲い掛かったが、近習にとりおさえられた。

趙襄子「おぬしは智伯の前の主人に仕えたときはそれほどでもなかったのに、智伯に仕えた後は何故に智伯のためにそれほどあだを返さそうとするのか」

予譲「智伯どのの前の主人は人並みに扱ってくれたから、人並みに仕えた。智伯どのは国士として扱ってくれた。私も国士として智伯どのに報いるのです。」

趙襄子「では覚悟をされよ」

予譲「しばしまたれよ。最後の望みを聞いて欲しい。趙襄子どのの衣をあたえてくれないですか。」

趙襄子「・・・・よかろう」

 予譲は趙襄子の衣を切り裂いて、後、自ら果てた。
 趙国の志士、この話を聞いて皆涙したと、「史記」に載っているとのことです。何ともすさまじい友情だろうか。日本人には想像の範囲を超えている。中国映画を観ていると、真の友に出会うと、生死を超えた友情があることがわかる。現在にも繋がっている。(WELL BE)

2009年3月7日土曜日

中国名言⑫民を尊しとなす(孟子)

 BC5-4Cころ大国同士の戦争ならばひどい状態となる。「地を争うに戦いを持ってし、人を殺して野に満つ。城を争うに戦いをもってし、人を殺して城に満つ。これ、土地のためとて。人の肉を食らうもの、死をのがれず。」(「孟子」離婁篇上)大変な時代だったようだ。孟子は「民を尊しとし、社稷(国の守護神)はこれに次ぐ、君を軽しとす。このゆえに、丘民(山野の人民)に得られしものは天子となり、天子に得られし者は諸侯となり、諸侯に得られし者は大夫(家老)となる。諸侯もし社稷を危うくすれば、諸侯を変地する。」(「孟子」尽心篇)と。

 尭舜の古い時代を賛美し、その時代のあり方にかえることを諸国を歩いて説いてまわっていた。この中で、民に得られし者は天子となるところがミソで民に得られなければ、天子も交代せざるを得ない。だから民の幸せ念頭に置いた政をせよと、当時の諸国の王に苦情を言ってといて回っていたのだ。実際は、王―諸侯―大夫―士-庶民の基本上下は決まった上での話であった。船の難破等で「孟子」の書(しょ)がなかなか日本へ渡ってこなかったのはこの辺りにあり、万世一系の天皇制をも否定する論理だからと中国でうわさされたとのことだ。幕末の志士、吉田松陰は「孟子」を信奉したとのことであった。(WELL BE)

2009年2月23日月曜日

映画「三国志」を観ました。

 先日、中国映画ダニエル・リー監督の「三国志」を観ました。

 常勝将軍と呼ばれた、3国(魏蜀呉)蜀の趙雲の物語です。

 AD201年の「赤壁の戦い」以降、20年経過し、軍師諸葛孔明は、魏に徐々に侵食されている状況から蜀として魏に攻め入るしかないと判断して、5将軍のうち最後まで生き残っていた趙雲を大将にして、戦いをいどみます。この頃には、蜀王劉備、猛将、関羽、張飛はなくなっており、後継者の時代となっていた。

 この映画で感じたことは、3つあります。1つは、中国の人たちが、特別な友人に特別の情をもっていることです。故郷を共にでてきた、常勝将軍と畏敬された趙雲(趙子龍)とうだつのあがらぬ平安の嫉妬をものみこむ生死を越えた友情の強さです。
2つ目は魏王曹操から趙子龍が奪った剣に彫られていた、"孟徳"という言葉です。孟子の徳が剣にまでほられて、孟子の徳を標榜していることです。3国時代の儒家思想をかいまみました。
3つ目は、趙子龍がなくなるとき「わが人生は円であった」というせりふです。人生を一回りしてきて元に戻ったということなのでしょう。私は老荘思想が現れていると思いました。

 レッドクリフ(赤壁)前編も観ましたが、これはこれでよかったとして、「三国志」という物語はどこを切り取っても魅せるものを持っています。その根幹は中国の人たちがもつ人と人との友情の強さ美しさのような気がします。(WELL BE)

2009年2月14日土曜日

中国名言集 ⑪断髪文身⑫臥薪嘗胆


 BC5Cのころ長江下流でいがみあいをはじめた呉越の両国は原住民の層においては同種であった。

 「越王勾践(こうせん)禹の子孫で会稽に封ぜられ禹の祀りをし、文身(いれずみ)断髪 (髪はざんぎり)し、雑草をひらきて邑をつくる」(史記)越人は水の神、禹をまつる水の民であった。

 時代は下るが、3Cの「魏志倭人伝」に倭人のことを「男子は大小となく、みな鯨面(顔に入れ墨)・文身(体に入れ墨)す、倭の地は温暖にして冬も夏も生菜をくらう。・・・」人種的に関連があるのだろうか?

 BC496年呉王・闔閭(こうりょ)は大軍を率いて太湖のほとりを南下し今日の嘉興に進出した。越は決死隊をつのって、呉軍の前に3列となり、呉人の漢語がわかるものがきいてもわからない、えたいのしれない叫び声を挙げて次々と自殺する。その内に越の勇者の放った毒矢が呉王・闔閭(こうりょ)の中指を吹き飛ばした。呉王は都のある蘇州に引き返したが、毒が回って、死の苦しみにあった。太子の夫差(ふさ)に
「越王勾践(こうせん)が汝の父を殺したことをわすれるか」太子の夫差(ふさ)は
「忘れません。誓って仇をとります。」

 やがて呉王・闔閭(こうりょ)は死んだ。呉の太子の夫差(ふさ)は薪の中に寝て復讐心を燃やし、3年の後、会稽山に越王勾践(こうせん)を打ち破った。

 敗れた越王勾践(こうせん)は呉王夫差(ふさ)に妻妾を差し出し呉王につかえまつるといって、許しをこうた。呉王夫差(ふさ)は越王勾践(こうせん)を許した。

 越王勾践(こうせん)はこの敗北を忘れず復讐を誓って、鹿のにがい胆を毎日なめて、敗戦の苦しみを思い出してやがて21年後、BC473年、呉を滅ぼした。

 このことをもって「臥薪嘗胆」という故事が残ったということです。以上は藤堂明保著「中国名言集」(上)を主に転載し、一部三省堂「ことわざ慣用句辞典」を引用しました。(WELL BE)

2009年2月11日水曜日

中国名言集 ⑩鼎(かなえ)の軽重を問う

 BC6Cのころ南方の楚が力をつけてきた。楚とは疎林(まばらな照葉樹林)という意味で、その林にわけいって木の実をとりヤマイモを掘り焼き畑耕作をいとなんでいた人たちであった。

BC4世紀の頃、楚の荘王が洛水のほとりまで勢力を伸ばし周の都の郊外に迫った。そこで盛大な観兵式をおこなって、周に圧力をかけた。周の王室は、王孫満という人を使者に立て、荘王をもてなした。荘王は「夏」から「殷」「周」と伝わっている宝鼎を見てみたいと王孫満に次のように行った。
「鼎の軽重はいかほど?」すると王孫満は次のように答えた。
「夏の昔、鼎を鋳て百物を象る。のち鼎は殷に移り、600年をへたり、殷の紂王、暴虐にして、鼎は周に移る。徳の立派なる時は、国小なるといえども鼎は必ず重く、国乱れる時は、鼎は軽し。周の成王、鼎を洛北に定めてより30世700年、これ天の命ずるところなり。周の徳、衰えたりといえども、鼎の軽重は尚、問うべからざるなり。」

 その答えを聞いて、荘王は軍を引き返したという。南方の人たちは、金と石の文化で鍛えられた北人の強引さが欠けている。植物文化の「押しの弱さ」がやがて楚を滅亡へ向かわせる。以上は藤堂明保著「中国名言集」(上)より転載しました。南の植物文化がひっかかります。(WELL BE)

2009年2月8日日曜日

チェコ映画「英国王給仕人に乾杯」を観ました。

 チェコのイジー・メルツェル監督の映画「英国王給仕人に乾杯」を観ました。

 ある給仕人の若い頃から、年老いるまでのおりおりの就職したホテルの様々な客の動向を見せながら、第二次世界大戦でドイツに占領され、戦後の労働党の支配まで飽きさせず描いていきます。
 ある給仕人は年老いて引退した状態と、若いときから壮年までを2人の俳優が演じる。
タイトルの英国王給仕人とは、気骨のある人で、主人公の上司にあたる。ナチスに支配されても、その気骨は揺るがず、ドイツ語には聞こえぬフリをする。イジー監督は、主役ではない英国王給仕人を誇りとしているのがわかる。主役の給仕人は時流に右顧左眄する。多くの人々の代表として。

 チェコは1993年チェコスロバキアから分離された。これらのボヘミア地方には複数の人種が住んでいる。戦争前、チェコスロバキアにはドイツ人も住んでいた。映画を観て始めて知った。

 映画を観ていて、ラストらしいシーンでは「オワって欲しくない!」と思った始めての映画でした。

 イジー・メルツェン監督のことは、公開講座フェスタ2008で「映画における人生の時間~その縮小と拡大~」として羽衣国際大学安東教授から「老優の一瞬」(人生は10分以上は長くない、老優の若い頃と現在を対比して10分で描かれていた。)の紹介を受けて非凡な才能に感心していました。妻の主張する映画は監督で見るべしということも満更誤っていなかった。(WELL BE)

2009年1月31日土曜日

中国名言集⑧上善如水⑨足るを知る者は富む

 いずれも老子の言葉です。

 「史記」によると孔子が洛陽に周の蔵書かがりをしていた老子を訪れ「礼」を教えもらったと記述されています。老子の活躍時代はいろんな説がありますが、孔子と同時代とも考えられ、紀元前の中国の墳墓より「老子」の言葉を書き付けた布片が出土しています。その言葉は5000字強で、函谷関の関守の依頼で「道」と「徳」81章を作成し、関守に渡し、どこともしれず去ったと記録されています。

 ⑧「上善(若)如水」(原書には若とありますが如としました、)とは小川環樹訳注「老子」によると「最上の善とは水のようなものだ。」(水のよさは、あらゆる生物に恵みを施し、しかもそれ自身は争わず、それでいて、すべての人がさげすむ場所に満足していることにある。(水を)「道」にあれほど近いものにしている。)ということです。・・・水は高きところから低きところへ流れていきます。似ている名言に「水は方円の器に随(したが)う」(韓非子)というのがあります。水は柔軟で四角の器にも、丸い器にもおさまる、つまり、上しだいで下がついていくという意味です。わが国の戦国時代の知将、黒田如水もここから名づけています。

 ⑨「足るを知る者は富む」同訳注によると「(もっているだけのもので)満足するのが富んでいることであり・・・」ことわざ慣用句辞典によると「満足することを知っているものは、たとえ貧しくとも精神的には富んでゆたかである。」とあります。この考え方からでたと思われるのがロを真ん中に吾、唯、足る、知るという円形の字体です。

 老子は現状を満足、何かするよりも何もしない方へ、大よりは小へ、高いところより低いところへ自分をおくといった考え方で、まず個人の健康であることがなりより大切であるという主張です。

 「道」を標榜し、人より「地」が、「地」より「天」が。「天」より「道」が上位で、「道」の上位は「自然」すなわち何もしない天真爛漫の赤子の状態とのことです。国で言えば、治めず、自然のままがよい、上の人は下の人に干渉しない、それ故、国は小がよい。儒教思想がやかましく人倫を説く時、その反動として、ほっとする中国の人々の心のよりどころが、老子そして後に紹介したいと思っている荘子だったようです。老荘思想はやがて道教となっていきます。(WELL BE)

2009年1月30日金曜日

中国映画「戦場のレクイエム」を観ました。

 フォン・シャオガン監督の「戦場のレクイエム」を観ました。中国の1948年当時の国民党と共産軍の戦い、広大な中国の中での1小隊48名が死守を命じられた炭鉱の防衛戦の物語。

 集合ラッパが鳴るまで、死守せよ。ラッパが鳴ったか、鳴らなかったか。48名は敵に蹂躙される。・・・

 国共内戦は知識では知っていたが、現実は映画で想像できる。大変な戦いをしてきたようだ。その後、中国は共産軍が勝利して現在に至っている。

 その国を理解するのに、映画のイメージがよいようだ。この映画は韓国の北と南の戦争の物語を撮ったスタッフの協力を得て作ったとのこと。原作は3ページの実話で内容をふくらませていった。出来上がりはアメリカ映画のようだった。見終わった今、映画の内容の前と後の中国に展望が広がっている。(WELL BE)

2009年1月28日水曜日

中国名言集⑦詩書礼楽をもって治む


 藤堂明保「中国名言集」(上) 「詩書礼楽をもって治む」より主たるところを引用してご紹介しましょう。図は春秋時代の中国を大づかみのため"晋"を加えました。当時の。春秋五覇=黄河下流の山東省に斉、その西隣の黄河北に晋、揚子江の南に越、その西北揚子江沿いに呉、揚子江上流北に楚がありました。

 孔子生誕より約100年前、BC659年秦の王位に繆公(ビュウコウ)がついた。当時の中国は春秋五覇(斉・晋・楚・呉・越)が周王をみかけ上の盟主としていた。秦は黄河のコの字を左90度回転させた下部にあり、当時「夷狄(いてき)」と見られていた元遊牧民でした。中央の勢力に関心を持ち、紆余曲折を経て2人の政客を採用しました。それが蹇叔(ケンシュク)と百里奚(ヒャクリケイ)でした。この「二老」をブレーンとして、その知恵と情報を利用してついに黄河の岸(山西-陝西の境)までを勢力に収めて「わが馬に黄河の水をのましめん」という野望を実現したのでした。

 繆公(ビュウコウ)の晩年、遊牧民「西戎」のところから由余(ユウヨ)という漢人が使者としてやってきました。
繆公「中国は、詩書・礼楽・法渡で政治をしているが、時に乱れることがある。夷狄にはこれがない、何をもって国を治めているのですか?」
由余「これこそが中国が乱れるゆえんです。上古聖帝の時代は別として、後世に及んでは、貴族は豪奢に流れ、法はいきわたらず、責任を下にかぶせています。上下恨みあいて、殺しあっています。しかるに、夷狄の人たちは上は徳をもって下に遇し、下は忠信をいだきてその上に仕えていますね」

 夷狄からみれば「詩書礼楽の文明」は封建貴族の退廃と、はてしない消費の競争にすぎないと思われたようですね。繆公は文明とはおそろしい毒をもつものだ、と思ったようです。東方の毒気にあたらないように注意をして政治をおこなったとのことです。

 最近のTVニュースに北朝鮮の金正男が流暢な英語で、つやのある風貌をみせていましたね。本国では対照的に質実に生きている2000万人余の同胞がいます。北朝鮮のリーダーがこの名言を見れば胸をなでおろすかもしれません。結局は、いずれの陣営の国も、国民に十分な「職」と「食」を提供でき「希望」を与えられるよう、指導者が情熱をもって指針を出し、国民もボトムアップする英知を発揮していかねばならないと思います。アメリカのオバマ大統領の決意と国民の熱気、わが日本では大阪府橋下知事の熱意のリーダーシップと府民の支持、地球の処々で変革の動きがでていることは頼もしいことです。(WELL BE)

2009年1月21日水曜日

中国名言集⑥「朋あり遠方より来るまた、楽しからずや」

孔子(BC552-479)の言った言葉として「論語」学而篇にある。

「学而時習之、不亦説乎。有朋自遠方来、不亦楽乎、人不知而不慍、不亦君子乎。」(学んで時には復習する、うれしいですね。(一緒に学んだ)友が遠くから訪ねてきてくれる。また、楽しいことですね。人が(自分が学んでいることを)知らないことだって、何とも思わない。君子ですね。)

 今の中国山東省にあった魯の孔子の生きた春秋時代は下克上の列強国割拠の時代でした。魯国の司法大臣まで登りつめたが、56歳以降69歳まで多くの弟子たちをつれて魯国を出て諸国をまわる。伝えられる数字では3000人の弟子を有していたというが。孔子の死(BC479)以降弟子たちや孫弟子たちが孔子の言った言葉を残した。20篇に及ぶ。その中の最初にあるのが冒頭の言葉です。

 孔子は「周」のよき昔に戻すべく、君臣、親子さまざまな「礼」を守ること、親子の「孝」、人間として生きる上で大切なことを人々に語りかけた。「論語」の最初に学ぶこと、そして時に復習すること、一緒に学んだ人たちが訪ねに来てくれる喜び、そして自分の能力をたとえ人が知らなくてもいいじゃあないか、と語りかけてくれる。

 中国では漢代以降、孔子・孟子を中核にすえた儒教が国教となりました。以降、中国の各層によきにつけ、悪しきにつけ中国人のバックボーンとなって今日に至っていると思います。

 日本には6世紀の半ばに百済より「論語」がもたらされた。おりおりの政権に重要視され、聖徳太子の17条憲法「和を以って貴しとなす」も論語にあり、徳川家康の遺訓「人生は重荷を背負って山道をいくが如し、急ぐべからず」も論語が原典にあり、家康は論語学習を押し進めました。江戸時代では町民から武士まで「論語」を学ぶことががさかんとなりました。武士道に「忠義」等多大の影響を与えました。明治以降、和魂洋才で一旦は漢籍を捨てたかに見えますが、どっこい儒教は日本的儒教として人々の底流に生きていると思います。それがこれらの論語に元をなす名言です。他に「一を知れば十を知る」「・・30にして立つ、40にして惑わず、50にして天命を知る。・・・」「仁義」「孝行」・・・古くなった理屈は取捨し、今に通用するものは取り入れて勉強していきたいと思います。野球用語の敬遠も元は論語にあります。「三省堂」の三省(友に謀りて忠ならずか、交わりて信ならずか、習わざるを伝えしかと日に3省する。)、「温故知新」(古きをたずねて新しきを知る)、「学習院」の文字も、明治の元勲山形有朋も「論語」よりきているとのことです。陳舜臣「論語抄」他を参考としました。(WELL BE)

2009年1月19日月曜日

映画「靖国」観ました。

 千里中央セルシーシアターで話題となっていた李纓(リー・イン)監督の「靖国」を観ました。感想を記します。

(内容)

 靖国神社の現在を通じて、李監督の思いをバックに靖国の刀鍛冶の鍛冶風景を縦糸として、さまざまなエピソード(小泉元総理の参拝、台湾人の合祀反対、参拝賛成派、反対派・・・)をからめ、歴史エピソードの映像(昭和天皇の参拝・軍人の参拝・百人ぎり・空襲・原爆投下・・・)を交えて靖国神社とは何かを問いかけているドキュメンタリー映画。台湾の女性がいっていたことが気になります。「靖国神社の鳥居の木は台湾の木を切って持ってきた。台湾人を戦争に呼び込み、台湾人で戦死した人の魂を異国の地の靖国に断りなく祀るのは、納得行かない。合祀からはずして返して欲しい。もし、日本人がそのような仕打ちを受けて、台湾で祀られれば、どう思いますか」と靖国神社の担当者に切り込んでいました。

(感想)

・日本人では靖国の映画化は構想できなかった。(太平洋戦争を総括せず、あいまいに現在まで来ているため)中国人につきつけられたところに意義があると思います。

・朝鮮併合・日清戦争・日露戦争・満州国設立・中国戦争・真珠湾奇襲と対米英戦争開始・アジア戦線拡大・特攻隊・戦艦大和の特攻作戦・原爆を受けるに至ったことその他様々な結果を生んだ行為の原因の分析と真摯な反省とその総括が必要と思います。そしてそれらの反省に立って、靖国神社の位置づけもしっかりと再構築し国民の納得の行く場所にせねばならないと思います。(反省をあいまいにすると行為を美化する論理が出てきます)

(目で見てわかる国民レベルで共有するようなニュートラルな考えに立つ先の大戦を反省する恒久的施設の設立が必要でしょうし、そのような計画があるとも聞いたことがあります。)

・多くの日本人に見てほしい映画です。

 幼い頃、母の背でB29の焼夷弾を避けてにげまどったこと。どこそこが玉砕するといった大人の話を聞いたこと。父が戦死したこと。戦争だけはこりごりだと思い続けています。(WELL BE)

2009年1月16日金曜日

映画「禅」を観ました。

 高橋 伴明監督 中村勘太郎主演 「禅」を先日みました。平日にかかわらず、年配者中心でしたが、大入りでびっくりしました。

 真面目な映画でした。道元禅師が宋にわたったシーンでは、中国語による会話にはびっくりしました。俳優諸氏がよく中国語をマスターされ、現地ロケで臨場感がありました。道元が宋に渡った後、京都での布教活動、永平寺を開山し、教団を作り、道元禅師の死ぬまでを描く。このような真摯な映画づくりが日本人によって認められ、多くの観客を動員して成功を収めれば、日本も捨てたものでないと思っています。

映画のHPより「八大人覚」を引用しました。参考としたいです。

少欲(しょうよく)
一、あまり高い目標を追い求めすぎると、破滅する。

知足(ちそく)
二、欲をいい張ったらキリがない。限度を知る。

楽寂静(ぎょうじゃくじょう)
三、のどかで美しい景色眺めると、心が澄む。

勤精進(ごんしょうじん)
四、やりたいことを一つにしぼり、無駄を省く。

不忘念(ふもうねん)
五、心が修まっていれば、人目は気にならない。

修禅定(しゅぜんじょう)
六、うまく事が運ばなかったら、一歩退いて見る。

修智恵(しゅちえ)
七、前向きの話を聞いていれば、混乱しない。

不戯論(ふけろん)
八、無益な口論ほど、社会を乱すものはない。(WELL BE)

2009年1月15日木曜日

中国名言集⑤宋襄(そうじょう)の仁

 斉の桓公が、BC643年に亡くなった。殷の棄民が国を作っていた宋に襄公という後世、次のことで有名になる宋国のTOPがいた。中国南部に楚という国があり、宋の襄公が中央部で覇権を得ようとしているようで、面白くないものを感じていた。BC638年冬、楚は大軍を整えて北上し宋との国境の泓水のほとりにおしよせた。宋軍の面前で隊伍を乱して川を渡り始めた。参謀の子魚が、
「襄公どの多勢に少勢の我々は今攻めるべきです。」といった。
襄公は、そ知らぬ顔、楚軍は川を渡り終えたが、隊列が整わない。また、参謀の子魚が言った。
「今こそ、攻めるべきです。」
襄公は動かなかった。ようやく敵の隊列が整った。襄公はついに言った。
「かかれ!」

 その結果は散々だった。部下が口々に不満を言った。襄公は「われ亡国の子孫なりといえども、列をなさざる敵に向かって鼓を打たず」と。

 この時に受けた傷で翌年襄公は亡くなった。(藤堂明保「中国名言集」上より脚色記載)

 何とも、痛々しいが、清々しい話です。これが人間が「義」を重んずるということなのでしょう。中東では現在きなくさい紛争が起こっています。正々堂々たる史実を多くの国の人が共有し歴史に学んでほしいですね。(WELL BE)

2009年1月9日金曜日

中国名言集③「管鮑(かんぽう)の交わり」④衣食足りて栄辱を知る

 以下はNHK知るを楽しむ 宮城谷昌光「孟嘗君と戦国時代」より抜粋し脚色して記載します。

 BC11世紀周の武王を助けて殷を滅亡させたのは、牧畜民の羌族出身の太公望であった。その功で周王室から今の山東省のところに「斉」の国をさずけられる。それからおよそ270年後、周は滅亡状態となるが、平王が洛陽の地で王朝を再興した。(BC770)それを東周と呼ぶが別称として「春秋・戦国時代」という。周王は諸侯の争いを調停する力をもたなく、諸侯の中の実力者を探して盟主として立て結束するようになった。春秋時代の初期は斉の桓公であった。そうあらしめたのが、臣下の管仲(?-BC645)であった。管仲を臣下として桓公に勧めたのが鮑叔(ほうしゅく)であった。

 鮑叔「一国の経営であれば自分でもできるが、天下を治めるには管仲が必要」
 桓公「そうか、どこに処遇すればよいか」
 鮑叔「私が大臣の職を引き、その後釜としてください」
という経過で管仲が斉の大臣となった。後に孔子(BC551-479)は鮑叔の進退を手放しでほめた。管仲・鮑叔の相手を認め合う交遊を「管鮑の交わり」という。

 管仲は国の制度、兵制を整え、経済政策を実行して斉国を富み、強くした。
 後世の管仲崇拝者が作った「管子」に次の文がある。

 「倉廩(そうりん)実つれば、すなわち礼節を知り、衣食足れば、即ち栄辱を知る」

 周王は斉国の隆昌をこころよく思っていなかったのは勿論である。

 NHKTV日曜「天地人」直江兼続の生涯を描く大河ドラマが 1月4日から始まった。戦国から江戸時代へ、上杉謙信を師として上杉景勝を補佐する名将の物語である。どこか、直江兼続と管仲が似ていると思ったのだが、結末は違う。管仲の死後、斉の国は衰退に向かい、王権者が田氏に交代して復活する。上杉家は徳川家康に「義」において問題ありと直江文をつきつけ「関が原の戦い」西軍敗退の後、上杉家は1/4の領土になるが戦国から泰平の江戸時代に存続していく。(WELL BE)

2009年1月3日土曜日

中国名言集②「殷鑑遠からず」

 藤堂明保著「中国名言集」(上)によると、「周のはじめ、成王を助けて摂政の役についた周公はこわいおじ様であった。「書経」の「無逸篇」はその周公が建国当初、成王以下の周の王族たちを戒めた訓示である。「父母は農耕に勤労すれど、その子は農耕の艱難を知らず、・・・昔、殷の中宗は小民を治めてひたすら恐れ、あえて怠らず国をうくること75年なり。殷の高宗は久しく、外に労して民とともにせり、故に国をうくること59年なり・・・・これより後は農耕の艱難を知らず、故にひさしきことあたわず、10年もしくわ7,8年あるいは5,6年もしくは4,3年にして滅びたり」

 殷の西部に勢力をおいていた周の武王が殷が滅ぼしたのは、紀元前11世紀の半ば、山東半島にいた太公望の助力を得た。先出の周公は武王をも助けた。「殷鑑遠からず」とは、周の時代になって、殷が滅んだことを鑑とせよ、そんなに遠い昔のことではないといつているのである。殷といい、周といい、直接支配しているのは小さな範囲で、封建領主の支配者となっていた。

 古い時代のことわざだが、毛沢東の文化大革命でも、知識人の農村下放があったが、根本の考えは時代を超えて戻ってくるようだ。

 余談ですが、滅んだ殷は養蚕・陶器・漆器・青銅器等の文明が栄えていた。殷人は特産物を、各地に売り歩くこととなる。これを「商」と呼び、勝った周も殷人の力を必要としたが、これをさげすんで、「商」人の位置を最下層とした。殷のことを中国では「商」とよんでいる。

 後に、日本でも江戸時代に士農工商と「商」人は最下位の位置づけとなったのは、中国の古い時代からの考え方のマネであったと思われる。(藤堂明保著中国名言集(上)他を参考としました。WELL BE)